88 夜のビロード sage 2010/12/11(土) 11:38:19 ID:UbxWjwVj

台風の目、というのだろうか。
彼女は、彼とこうして二人で会うときだけが本当に安らかな時間だと、いつも感じていた。
疾風怒涛の時代、それを毎日乗り切れるのは彼のおかげだと、彼女は心から思っていた。

夜のビロードだけが、二人を包んでいた。
ホテルのベッド、裸でシーツにくるまる二人には、教師と生徒という社会的関係などもはや何の意味も持たなかった。
ただの男と女、いまだけはそういられた。

眼鏡を枕元に置いて寝息を立てる彼の額に、彼女はそっと口付けた。
さっき彼が放出した欲望の滴の匂いがまだ、ベッドサイドのゴミ箱に丸められたティッシュから、先を縛られた避妊具から、部屋に漂っていた。

"Power of love" is the curious thing...makes one man weep, makes another man sing...か。
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの昔の曲。
1985年より2015年の方が近い年になっても、色褪せないあの映画の主題歌。
学校の廊下を歩いているときもつい、口笛で吹いてしまうくらい好きな曲。

彼の、眼鏡の奥の瞳はなにも言わないけれど、彼の優しさに触れるたびに彼女は、どんどん人に優しくできた。
辛かったときも、彼女は人に優しくなれた。
彼の辛い顔を目にする度に、彼女は彼の笑顔を増やしたくて人に優しくなれた。
それは、二人でいるからこその話だった。

彼女は聖母マリアのような微笑で彼のこけた頬を見つめた。
彼女がこんな顔をしているところを誰かに見られたら、「あんたそんなキャラじゃないだろう、なんか悪いものでも食ったのか?」なんて言われるかもしれない。
平気でそう言いかねない赤い眼鏡の優等生の顔を思い浮かべて、彼女は吹き出した。
みんなにはこの関係は秘密だから、絶対にそんなことを言われることはないはずなのに。

でも、いつかはみんなにこのことを話さねばならない日は来るだろう。
ストイックでスポーツ万能な親友にすらまだ打ち明けていないけれど、いつかは。

彼女は大きく伸びをすると、再びシーツの中に身体を埋めた。
夢の世界に、彼といる生活も夢のようだが、今度は本当の夢の中に彼女はまた引き込まれていった。
まどろみの中、幸せを彼女は、噛みしめていた。
彼の体温に、心地よい暖かさに、彼女は抱かれていた。

inserted by FC2 system