401 名前:『土曜日に溺れる』【1】[sage] :2005/12/17(土) 12:26:52 ID:AQlmfHKU
                       1

 お昼ができるまで、二階に行ってろ。
 滝野智に言われるままに水原暦は、音がしないように階段をゆっくりと上がっていった。智の家は古い。不用意に階段を上ればギシギシと音がして、そうすると必ず。
「よみ、太ったな」
 と言われてしまう。言われればムカッとする。けれどそれを表に出すのは大人気ない、かっこわるい。何より怒れば図星を指されたようで、癪に障る。実際は行きつ戻りつで、体重事態に大きな変化は無い。けれど油断大敵である。
「遺伝って事も、あるからな」
 暦の父は、中年男性らしい丸みを持った身体をしている。そもそも、中学の辺りから発育をし始めた腰と胸元は、父方の祖母譲りらしい。母方は一様にやせている。胸元もすっきりしている。やはり油断は出来ない。
 上り終えれば、階段の脇に取り付けられた窓から、隣の家が見える。十二月始まって今日まで、武蔵野では雨が降らない。スカッとした空の下、隣の庭の木蓮の、落葉しきった木が見える。少し目をそらせば、赤い盛りの終りかけた紅葉がある。乾ききった世界。
 ――火がつけば、あっという間に、燃えるだろうな。
 予想があった。事実、家の近くでもボヤ騒ぎがあったばかりだ。放火の疑いがあると言う。燃え移ることが無くてよかったが、それは偶然であって、運がよかっただけとも聞いた。何でそんなことをしたがるのか、暦にはよくわからない。
 燃えるのが、そんなにいいのかしらん?
 だから智の部屋に入ったとき、それが目に付いて、思わず指につまんでしまったのだ。
 お香である。
 仏壇に捧げる線香ではない。いわゆる円錐形をした小さなお香である。深い蒼をしている。それがほたて貝の殻の上に置かれている。よく見れば貝殻にはもう灰がたまっていて、智が幾度もそれを使用していた形跡がある。もちろんこれには、火はついていない。
「どらどら」
 傍らには、ライターがある。そのライターを手にとって弄ぶうちに、火をつけてみたくなった。カチリと火打石をはじけば、ガス口から勢いよく火が吹いた。そっと近寄せると、炎の距離は離れて見えるのに、香の頭にぼっと火が灯った。燃えている。


402 名前:『土曜日に溺れる』【2】[sage] :2005/12/17(土) 12:28:05 ID:AQlmfHKU

 

「アチチ」
 ライターの持ち方が悪かったか。ライターが熱くなって、思わず手を離す。指をかすかにパタパタしたら、その時起きた微かな風で、燃えていた香の火がふっと消える。
「あ」
 消えた炎の跡から、すうっと一筋、煙が立った。香は煙を出す前から、微かににおいを発している。そして煙のにおいはやっぱりそのにおいだった。不思議な香りである。鼻に近づければ、かなりきつい匂いなのに、煙になればちょうどいい。
「当たり前か」
 呟けば、忙しく、するするすると昇っていく煙が、ゆらゆら揺れた。煙草のそれと違って間断なく高く高く、形を崩さずに、直進していく煙。香はじくじくと燃えていき、灰はそのまま白い塔になっている。
へえ、燃えても、灰は崩れないんだ。
確かに貝殻には、香の死骸が二つ、横倒しになっている。ずいぶんしっかりした形だったから、気になって手にとってみようとして。
「あちちっ! 」
 誤って、燃えている香のそばを、指でかすめてしまう。豆粒程度だから、見逃していた。小さくとも火は火である。まして十二月に入って雨は一度も無い。よく燃えるのだ。燃えきっていない円錐が倒れて、けれどその形はそのままに燃える。
 倒したままで最後まで燃えるのかな? 起こそうかと思って、けれどそのまま放置して、貝の上の灰を、今度は用心深く、指でつまもうとしてみる。つまめない。指でつまもうとした跡だけが、微かな窪みになっている。
「どうするかな――」
 一計を案じて、指を唾で湿らせ、触れてみた。今度はその姿を捕らえる。ただし一部だけである。円錐の一部が崩れて張り付いて、暦の指にべったりと貼りついている。女性らしい、しかし重みのある、指である。親指でぐい、と灰をこすってみた。
「へえ」


 

 

403 名前:『土曜日に溺れる』【3】[sage] :2005/12/17(土) 12:28:48 ID:AQlmfHKU

 

指先に、細かな灰が、ただの白い筋になった。ざり、という感触が、幻ではないかと思うくらい脆い。ためしに舌の上に乗せる。無味である。けれど今度は確かに、ざり、と細かな細かな舌触りがした。
 煙草の灰とは違うのだな。煙草の灰を舐めたことは無いけれど、煙草の灰は均一の灰ではない。乾燥した葉を紙で巻いたものだから、燃えれば灰の形も色も何もかも違う。
 そうか。
 煙草の煙がずっと一直線に昇らないのは、燃えたまま放置されるわけではないからだ。口で吸うために上げ下げして、吐く息吸う息に踊らされる。そういえば初めて吸った紙巻は、しばらく煙の立ち上るのを見ていたな。するする、するすると。
 傍らに置かれている、紙の箱を取上げてみる。中央のビニールフィルムから、幾重にもなった蒼い香がひしめいている。香の名前は、オーシャンブリーズだ。海の吐息、か。なるほど、言われればそんなふうに言えるにおいかもしれない。
 そっとベッドを背にして、もたれかかってみる。頭をベッドにのせてみると、煙った天井が見える。眼鏡を外す。目をこすってみる。焦点を合わせていたグラスの外は、曖昧な世界である。それが煙でより曖昧になる。
 青い匂いがする。煙がもろもろしている。ため息をつく。その息に煙が一足遅れて、ゆわん、と動く。わずかな風に反応するのである。側にあった漫画を手にとって、一、ニページめくって、またため息をつく。はあ。煙がゆわんと動く。
 トントントン、と軽い足音が上ってきた。トントントン、ぱたぱたぱた、そしてざらっとふすまが開いて。
「よみ、昼飯、できたぞ」
「わかったー」
 呼びに来た智の声にけだるく答えて、顔を上げると、充満した煙に眉をひそめた友が。
「お香炊いたんだ」
「うん」
「よみ、煙草も吸ったろ」
「吸ってねーよ」 

 

 

404 名前:『土曜日に溺れる』【4】[sage] :2005/12/17(土) 12:29:31 ID:AQlmfHKU
                   2

 一回の奥の台所は大きなスペースがとってある。赤ワインまで用意されたテーブルは準備万端であって、土曜の昼下がりにふさわしい。食事のメインは一階に下りてすぐにわかった。サンマの煙のにおいがした。
 別に台所で待っててもすぐだったじゃないか。暦の言葉に、まあまあ、いいじゃないの乾杯しようよ、乾杯。
「乾杯」
 二人とも、土曜日は一緒にお昼を食べることにしている。それはすなわち一日中一緒にいるということでもある。それだけで嬉しい。ワインに口をつけて、暦はにんまりする。ポテトサラダがある。赤はポテトサラダと相性がいい。
「これ作ったの、ちよちゃんだろ」
「ご名答」
 やっぱり、と言いながら、さっそく箸で摘まんで口に運ぶ。ほっこりとしてさらりとした舌触り。昨日の晩、榊が持ってきたんだよ、これ、と、滝野もワインを一口やって、言った。
「作りすぎたんだって」
「へえ。榊、相変わらず料理ダメなのかな? 」
「いや、これは一緒に作ったみたいよ。ちよちゃんと」
 ふうん、と暦は答えて、榊も大変だなあ、と呟いた。榊は、料理得意じゃないのに。
ちよちゃんのポテトサラダはとても上品な味。きれいな白に、きゅうりとにんじんとハムの彩りが鮮やか。
 滝野智も、料理が不得手ではない。智のポテトサラダは炒めた玉ねぎを入れるので、ほんのり温かい色になっている。しゃきしゃきした歯ざわりが美味しい。マヨネーズの味よりも、塩コショウで塩梅よく味付けてある。ちよのはマヨネーズがたくさん入っている。
「基本に厳しいからね、ちよちゃん」
「ほんと、榊も大変だ」
 うなづきあってポテトサラダを咀嚼する。二人よりも年下の同窓生は、マヨネーズも一から作るので、マヨネーズがふんだんにはいっていてもしつこくないのだ。一緒に作ったということは、榊もその工程を仕込まれただろう。榊も大変だ。
406 名前:『土曜日に溺れる』【5】[sage] :2005/12/17(土) 12:30:27 ID:AQlmfHKU

 

ワインを口に含めば、ポテトサラダの後味が、さっと溶けて消える。赤ワインのタンニンに耐えうるだけの力が、ポテトサラダにはある。
「サンマ、何かかってるの? 」
「まあ、食べてみてよ」
 けげんな顔で暦が尋ねるのは、見慣れない濡れ方をサンマがしているからだ。じっくり焼かれたサンマ、皮は所々焼け焦げて、脂でてらてら光って。けれどそれは上からかけられた汁に、しんなりしている。皿の底には少し汚れた赤い汁がたまっている。
「まさか、赤ワイン、とか? 」
 智はにやにやして、答えない。一つまみ箸でむしって口に運べば、汁をかけられてもまだ温まっているサンマの肉である。湯気を立てているサンマの肉がある。そして暦は、サンマにかけられたのが酢であることを知る。
「うま! 」と言えば、にやにやしながら智。
「だろーぅ? 」

                                3

 ついにワインを一本空けてしまった。午後一時の一時は、大抵昼食の投了戦から始まる。暦は一足先に、少しふらつく足で、コーヒーメーカーを抱えて階段をのぼる。ぎしっぎし、と階段が鳴いた。じきに皿洗いを終えた智が、食後のお菓子を持って上がってくる。
 ざら。
 ふすまを開ければ、ふ、と蒼い潮のにおい。放っておいた香の火はとうに消えている。しかし香のかおりはある。その残り香の中、コーヒーメーカーをセットして、窓を開け放つ。酔いの回った頬を、十二月の風が撫でる。乾いている。空気が入れ替わる。
 そうして暦はまたベッドの脇に腰掛けて、鞄からリップを取り出した。唇に塗る。乾いている。
 シュ、ヲ、オ。
 蒸気の音がして、蒸されたコーヒーの液が、ビーカーのような耐熱ガラスのポットに注がれる。手持ちぶさたになって、鞄の中から、今度は煙草を取り出して火をつけた。すかーっと煙が上がった。ふう、と煙を吐く。
 あ、舞い上がった。
 リップを塗ったばかりの唇に、ぺたり、と煙草の吸い口が吸い付いた。普段はレポートや勉強に集中するための道具である。食後の一服の習慣は、暦には無い。今吸っているのは、さっきの香の煙の影響だ。ふかせば、乾いた冬の空気に、煙はやんわり溶ける。
 さっきの漫画を手にとってみる。今度は三、四ページめくって、煙を吐いた。むこうから、とんとんとん、とリズミカルな足音。


 

 

407 名前:『土曜日に溺れる』【6】[sage] :2005/12/17(土) 12:31:32 ID:AQlmfHKU

 

「それは灰皿かもしれないけど、吸殻入れじゃないよ」
 部屋に入ってきた智は、お皿に盛ったクッキーを暦の側に置いて、きつい声で言った。
「わかった、携帯灰皿に入れる」けちなこと言うなよ、と言うのを飲み込んで、鞄をまた一探り。取り出した携帯灰皿に、吸殻をねじ込んだ。ぎゅっ。そっと視線を上げると、まだきつい智の視線。まずいなあ。智は煙草が嫌いなのだ。
「よみ……」
「は、はい」
 神妙に答える暦に、滝野はぷっと吹き出して。
「お前また太ったろ! 階段ギシギシ言ってたぞー! 」
 嫌味な笑い声に思わず。
「うるさい!! バカッ!! 」

「タンニンにさ、サンマの肝が合うんだねえ」
 記憶の中で反芻して、暦はにこにこする。コーヒーの香りがいい。満足してぼうっとする。智の目は酔ってとろんとしている。頬は赤くなっている。暦が智の額の髪を撫で上げると、しっとり汗ばんで光っていた。風が涼しい。
「ワインビネガーって、あんなに合うんだな」
「ん」
「あれ、赤だろ? 」
「そ、今度は白で試してみるつもり」
 今度は智が、暦の髪をすき上げた。さらさらと暦の髪の毛が流れて、指から零れ落ちていく。
「煙の匂いがする」
 暦の髪のにおいを、くんと嗅いで、智が囁いた。煙草? と聞き返されて、違うよ、さっきのお香のにおい。
「でも、そんなにここには長くいなかったぞ」
「においって、けっこうバカに出来ないよ。きっと今、あたしサンマのにおいするし」
 そう言って智が笑って、そっと暦の肩に頭をもたれかけさせた。
「サンマの? 」
「さっきまで、焼いてたからさ」
 暦は、智の頭をくんくん嗅いでみる。近づいた智の身体に触れて、ジーンズ地のワンピースを感じる。固くごわごわした感触。智が羽織っているカーディガンは、何度も洗濯して地の青がすっかり色褪せた空色。中学の頃から使ってると聞いた。
「お前のにおいしか、せんぞ」
「え? そう? 鼻悪いんじゃない? 」
 そう言って智は、立ち上がって、窓を閉めに行った。白地の薄いカーテンも閉めた。厚手の緑のカーテンは閉めない。さっと薄暗くなる室内。


 

 

408 名前:『土曜日に溺れる』【7】[sage] :2005/12/17(土) 12:32:08 ID:AQlmfHKU

 

「智」
「なに? 」
「そのカーテンも閉めればいいじゃん」
「いらないよ。光が反射して、中まで見えないって。それに」
 昼まっからカーテン締め切るなんて、何か意味深じゃん。笑う智に、あそ、と答える暦。何を今更。

「高校を卒業してさ」
 隣にストンと座りなおした智を見やって、暦が言う。唐突な話の流れに、滝野はまじまじと暦の顔を覗きこんで、はあ、とうなづいた。
「高校卒業してさ、何かいろいろ変わったって思わないか? 」
「べっつにぃ」
 明るい声に、暦は、む、と言葉に詰まる。そんな水原を放っておいて、智はごそごそと何かやりだした。何してるんだよ、お前。えへへ、べっつにぃ?
 香だ。
 香を炊いている。
 貝殻の上に無造作に置かれた円錐の小さな青い香。智の細い指が、香をライターで炙っている。火を離せば、しばらく頭上で燃えて、さっと煙に変わった。一本の筋がすうっと上っていく。また海の香り。
「はまってるの? 」
「なにに? 」
「お香に」
 尋ねれば、智の答えは、ううん、気まぐれ。
「シェフの気まぐれサラダなみに、気まぐれ」
「なんだよ、それ」
 言ったとたん、暦は口をふさがれた。智に押し込まれたクッキーに。口元をもぐもぐさせて見れば、智はえへへと照れ笑い。
「幾らした? 」
「100円ショップ」
「貝殻は? 」
「先日の晩御飯の、残り」
 注ぎ足してもらったコーヒーで口を洗えば、暦の口の中の甘い余韻が、さっと溶けて苦味に変わった。
「やっぱり変わったな」
 智の言葉に、何が、と聞き返せば、高校卒業してさ、との答え。
「どこが」
「よみが、コーヒー、ブラックで飲めるようになった!! 」
 はしゃいだ歓声をあげる智に、暦がベッドの上の枕をぶつけた。


 

 

409 名前:『土曜日に溺れる』【8】[sage] :2005/12/17(土) 12:32:34 ID:AQlmfHKU

 

「私は元々ブラック派だ! 」
「クリームと砂糖たーっぷりのなー」
「何も足さないし、何も引かない!! 」
「へー、以前ちよちゃん家でブラック飲んで。
――ニガ。
とか言ってたじゃーん! 」
「言ってねえ! 」
 バスン!
 もう一度叩きつけられた枕に、わぷ! と智が言った。
「いーじゃん、こうしてコーヒー飲めるようになったんだからさあ」
 ぽい、と枕をベッドの上に放り投げて、ニヤニヤ笑う智に、顔をしかめて赤らめて。
「苦味も旨みに感じられるようになったんだよ! 」
「だから煙草、吸うんだ」
「な! 」
 思わぬ攻撃に、暦があんぐり口を開けると、ニヤニヤ笑いのまま。
「煙草吸ったら、健康な赤ちゃん、産まれないよ」
「妊娠したら、すっぱり止めるよ」
「へえー。まあ、よみみたいなの、もらってくれる男の人がいたらいいけどねえ」
 ぐいぐいぐい、と一気にコーヒーを煽って智は、コーヒーメーカーの電源を落とす。ぱちん、と音がして、稼動ランプが消える。ポットのコーヒーをもう一度、暦のマグカップに注ぎきって元の位置に戻すと、熱の残っているプレートが、じゅん、と音を立てた。
「……どうした? 」
 継ぎ足されたコーヒーを暦が飲み干す数分の間、とっくに飲み終えた智は、膝を抱えたまま一言もしゃべらない。しん、とした様子に心配になった水原が。
「どうした? 」尋ねれば。
「嫉妬した」
「は? 」
「よみが、結婚するかもって思ったら、その男に嫉妬した」
「それ言い出したのお前の方だろ!! 」
「うるさい! このボケ眼鏡――っ!! 」
 今度は枕をぶつけるのは、智の番だ。ぼすん、とぶつかって、暦。――てめえ、本気でやったな……。詰め寄る暦に、そっぽを向いた智が、ふん、と鼻を鳴らした。すねているのだ。
「――ったく」
 口の中にあった言葉を噛み潰して、暦は残っていたコーヒーを飲み干した。コーヒーの香りに混じる、香のにおい。ふ、と顔を上げれば、たなびく煙、ゆら、ゆら。もうこんなところまで版図を広げたか。帯のようにたなびき、幾重にも折れ、溶けている。
 深く息を吸う。吐く。
 煙がぽんとはじける。そっと手を伸ばす。漂い群がる煙が一拍置いて、ふわん、と流れた。風だ。微かな動きに、風が起こったのだ。動けば風になる。風は拡散して溶けていく。次の風を起こすために。



 

 

410 名前:名無しさん@ピンキー[sage] :2005/12/17(土) 12:36:47 ID:CzuRVw4K

                 4

411 名前:『土曜日に溺れる』【9】[sage] :2005/12/17(土) 12:37:01 ID:AQlmfHKU

 

煙を眺めていたら、細い筋がふっと途切れた。香が燃え尽きたのだ。
「智」
「ん? 」
「火、消えたよ」
「新しいの、つけていいよ」
 よっこらしょ、と智は起き上がって、側の箱をとった。蓋を開けて中からビニールの袋を取り出した。青い色の円錐。はい、とつまみ出して暦に手渡す。
「やってみ」
「うん」
 うなづいて、かたわらのライターに手を伸ばそうとすると、そんなの要らないよ、との声。
「え? 」
「その灰に、お香の頭、突き刺してみなー」
 まだ燃えているのか? まさかと思って灰に突き立てると、柔い灰にさっと通って、固い芯に突き当たった。赤く燃えている、火種。瞬く間に一条の煙。
「早いよ、まだ」
 もういいかなと思った暦に、智が押し留める。
「火を感じたら、いいよ」
 火を感じるとは何のことか。わからないが、そのまま差し込んでいれば。
 アチ!
 ちり、という感覚に慌てて引き抜けば、摘まんだ香の先には一灯の赤。煙の筋、一本、すうっ。貝殻の上に新しい香を立てながら、暦。
「まだ燃えてたんだ」
「灰の下に隠れてね」
「でも煙出ないね」
「残り火だからね」
「こっち消えるね」
「残り火だからね」
 言い合ううちに、すうっと灰に埋もれていく赤。
 あ、消えた。
「火が移ったからね」
 新しい煙は立ち上り、溶けて、部屋の中にその密度を増していく。立ち込める海のにおい。曖昧な世界。煙に溶けて曖昧な世界。そっと、左手に感触。智の右手。
「ねえ、よみ」
「なんだよ」
「右手、貸して」
「なんで」
「いいから」
 ほれ、と差し出す右手を見て、やっぱりついてるね、と智が言う。ついてるって何がだよ。灰が。灰? 怪訝な顔をする暦に、にやっと笑って。


 

 

412 名前:『土曜日に溺れる』【10】[sage] :2005/12/17(土) 12:37:48 ID:AQlmfHKU

 

「きれいにしてあげるよ」
 暦の指先を、くん、と嗅いで、智は暦の指を口に含む。こすってとったつもりだった灰は、微かにその白い指を曇らせていた。それを舐めて取ろうと言うのである。
「ば……! 」
 声を上げる暦にそしらぬふうで、ゆっくり智は指を味わう。舌でよみの指の形が分かる。爪、爪の先、指紋、第一関節のくびれまで。前歯でそっと噛んでみて、けれど舌は優しく指の形をなぞる。
「……か――」
 ののしろうとして言葉につまり、ごく、と唾を飲む暦を見て、智は満足しながら、指のお遊びを続ける。静かな部屋の中で、ちゅぱっちゅぱっと唾液のはぜる音。鼻の奥で、よみの触れた香のかおりを楽しむ。無味である。けれど鼻腔は、敏感に香りを捕らえる。
「くすぐったい、よ……」
 喘ぐ暦を無視して、智は彼女の右手指先の残り香を楽しむ。水原の左手の甲は、優しく撫ぜられて、ひくん、と身をよじった。そっと智はしゃぶっていた指から口を離して、そっとよみの耳の後ろのにおいを嗅いだ。そして。
「変わったとこ、あったよ」と囁く。
「な、に? 」
「よみの身体に、新しいにおいが加わってる」
「なに」
「煙草の匂い」
「嘘! 」
 驚いた暦は、慌てて自由になった右手で以って髪の毛をつかみ、自分の鼻にあてた。
「――え? ほんとに? 」
「自分の出してる匂いって、気づきにくいもんね」
 髪には篭るから、よく嗅いだらわかるよ。そう囁く息はねっとりと熱いから、暦はまた身をよじる。くすぐったい? よみ?
「……っ! ん、んぅ――」
 荒い息遣い。耳の後ろにそっと舌を這わせた智は、今度はおおげさにクンクン匂いを嗅いで。いいにおいがする。その囁きに、嘘つけ、とよみは返す。煙草の匂いがいいにおいなわけないだろ!
「煙草の匂いだけならね。でも――」
 ――もうよみの身体に混じっちゃってるからさ。
 そっと噛まれた耳たぶに、ああ、と暦は喘ぐ。そんな水原のうなじの火照ったにおいを、智は横隔膜が広がりきるまで吸う。思わず腰がびくん、と跳ね上がる、よみ。くっと奥歯を噛み、犬のように匂いを嗅ぐ智の尻に、そっと暦の手のひらが触れた。
「あは! 」
 溜め込んだ息が、暦の肩ではぜる。ぜえぜえと息を吐いている。暦は智の尻を撫ぜる。スカートは青いジーンズ地だ。けれどその固い生地の下に、しなやかな彼女のお尻を感じる。はりのある、滑らかな手触り。汗をかいているのまで分かる。
「ハーン、ハァーン、ハアァ――ン」
 みっともないくらい、熱い息が、よみの肩口を湿らせる。我慢してたのかな、智。こうやって喘ぐの。
「はあぁん、ああああん、あああ、あん。ア、ア、はあはあ、は」
 じわりと智の目尻が潤む。双丘の谷に指が押し付けられたから。固い生地なのに、指の形にへこんで、窪んで、中身の濡れ始めた下着越しに動きを伝える。暦の右手の、中指の動きを。


 

 

413 名前:『土曜日に溺れる』【11】[sage] :2005/12/17(土) 12:38:23 ID:AQlmfHKU

 

「智」
「んぁ? 」
「いいにおいがする」
「ぇ? 」
 とものはつじょうしたにおい。
 顔を見合わせる。溶けた瞳で見つめあって、溶けた瞳を認めあって。キスをする。音を立てて。唇と唇で、舌と舌で。コーヒーの香りはしなかった。ただ舌には、ローストした豆の苦味がある。
「よみ」
「ん? 」
「お酒のにおい、するよ」
「サンマの、ッハア……、に、おいは――? 」
「する」
 すぱっと言って、智は、でも気にならないよ。
 智のにおいは、煙の匂いと、ワインの匂いと、唾液の匂いと、お昼ご飯の匂いと混ざってすぐに溶けて、二人の匂いになる。甘い香りになる。
 ねえ、智。なに? なんでもない。ふふふ。……アッ。どうしたの、よみ? ばか、いじわる。
 どちらがどちらの囁きか分からないくらい溶け合った声の中、キスしながら智は、そっと指を暦の着ているセーターの下にもぐりこませる。
「ひ! 」
 暦が声を詰まらせたのは、智の指先がひんやりしていたから。
「よみのおっぱい、あったかーい」
「へ、変なこと言うな! 」
「おっきーし、やわらけー!! 」
「智。冷たい指、禁止」
「えー? 撫でて欲しくないの? 」
「……いらない」
「もー! つれないこと言うなよ!! 」
 言いながら、智の指は、ブラジャーの上からそっと暦の胸に触れる。そっとそっと、もどかしいくらいに、そっと。よみは、知らない! とでも言うように顔を背けて、それでも目は閉じないでそのままでいる。智は観察しながらさすり続ける。その細い、ひんやりした手で。
「お香に火をつけるときにはさ」
 智のおしゃべりにも、死んだみたいに身じろぎしない水原。まるで聞こえないみたいに。そんなことには気づかないような顔で「じっと待つんだよ」と明るい声で、智。
「よみも感じたろ? 火が移ったらさ、その感触があるんだよ。ふっしぎだよねえ。どんなに煙が出てても、それを感じないと火がついていないんだよ」


 

 

414 名前:『土曜日に溺れる』【12】[sage] :2005/12/17(土) 12:39:07 ID:AQlmfHKU

 

 暦は答えない。魚の目みたいに感情のない瞳。けれど智はけして急がない。
 柔らかい暦の乳房は、厚手のブラジャーに覆われている。ふちのところにはフリルがついている。その部分まで撫で上げて、今度智の指はそっと乳首の辺りまで戻って、親指の横腹でこすってみる。左右に、左右に。
 乳房の奥が、固くなっている。弾力が楽しい。乳首はすっかり固くなっていて、よく我慢できるものだと思うくらい。そっと膝を水原の股間に当ててみる。暦のズボンは芯の強い綿なのに、そこがどうなっているのか、手にとるようにわかる。
「よみはどうなのかなあ? すごく興味あるなぁ。おっぱいでよくなってるのかなぁ。それとも、初めからよくなっちゃってるのかなぁ」
 水原の眉間に、皺が寄った。けれどその瞳は、動かず揺らがず静かなまま。よみの首のつけねがつっぱっている。乱れた髪の奥から覗く、襟足が震えているのが分かる。
「ブラの上からさあ、固くなってるのがわかると、ハァ、あたしまで、きもちよく、なっちゃう。すっごい濡れちゃう」
 わざと息を乱して言うと、よみの首筋が、ぞわわっと粟立ったのが分かった。ごくり、と唾を飲む音。もう智は分かっている。よみの身体に火がついているのを。それなのに、焦らして焦らして。
「よみ、かわいー。すっごいかわいい。エロいオッパイさすられてさ。恥ずかしいエロ乳。膝で触ってもわかるよ。よみのここが、すっごい感じてるの。やっぱりよみはえろいなあ。おっぱい――」
 智のいやらしい声が、ぴたりと止まる。シン、と凍りついた空気。よみが真正面から、ともを睨みつけているから。暦の眉間に刻まれた深い皺。つりあがった眉。口はへの字に曲がっている。しまった、やりすぎたか。智の心臓が、ひやり、とする。
「よみ――。あの、怒った? 」
 恐る恐る尋ねれば、怒った顔のまま暦は、さっと両腕を滝野の首に巻きつけて、そのまま乱暴に引き寄せる。
「はふ。は、ぁふぅ――。は、は、ぁハ……」
「……んぁ――よ…みぃ? 」
「はっはっ、はぁ、ハー。ハー。ぁん。うん。ウム――」
 ぺちゃぺちゃと舐め回すこよみのキス。強い力で抱きかかえられて、智は全く身動きできないでいる。リップクリームに潤んだ唇が、ひたり、と智の頬に食いつき、離れ、舌が這い、その度、涎が、息が、智の淫らな心を刺激する。
「くるしいって、よみ」
「だめ。だめあたし、もうだめ」
「よ、み? 」
「だめぇ。あたし、もう、だめぇ」
 だめ、だめと言いながら、腰がうねり、やがてそれは智の膝に押し付けられる。ズボン越しに膝を捕らえると、狂ったようにこすりつけながら。だめえ、あたし、あ、あ、あ。ともきもちいい。涎が、しっとりした唇から溢れそうになっている。
「――ぉ、み……」
 すっかり快楽に燃え上がった暦を見て、智の胸の奥が苦しくなる。何かがせりあがってくるような感覚。何もされていないのに、乳首がぎうっとつままれたような、快感。それから腰の奥がひくひくする、もどかしい感じ。お尻を撫でられてたときより、ずうっと。
「こよみ、いやらしい」
 スカートの下の、パール色のシルクのパンティの奥。その濡れそぼったところで、女の持つ小さなペニスが、快楽を求めて熱を持っている。充血している。だからお腹の奥の方から腰が、ひくんひくん、動く。


 

 

415 名前:『土曜日に溺れる』【13】[sage] :2005/12/17(土) 12:39:54 ID:AQlmfHKU

 

 息苦しさに喘げば
 海の吐息のにおい

 それから智の吐息
 熱く甘い暦の吐息

 引き剥がしていく
 衣服と下着と理性

 二人で絡みあって
 濡れそぼっていく

 涎と汗と愛液と欲情に

「とも、すき」
「うん、すき」
「とも、すき? 」
「あたしも、こよみ、すき」
「……んあ」
「いい? 」
「いいよぉ」
「だいすき」
「うん、だいすき」

 言葉は溶けて、二人の密度を増す。立ち篭めた二人のにおい、甘えた声。ワインの香り、お昼ご飯のにおい、コーヒーの香り、智の部屋のにおい、二人の汗のにおい唾液のにおい。

「あ、はぁぁっ!! 」

 一際高く鳴いて、窒息する。
 満ち満ちた香のにおいと、喉までせりあがった欲情の渇きに。
 お互いを求めて、乾いている二人。
 だからよく燃えるのだ。


 

 

416 名前:『土曜日に溺れる』【14】[sage] :2005/12/17(土) 12:41:14 ID:AQlmfHKU
                               5

溶け合った身体を起こして、裸の身体に、ベッドから引き摺り下ろした羽毛布団を仲良くかけて、二人でよりそって、快楽の余韻に浸っている。混ざり合って曖昧になっていた意識が、戻ってくるのを感じながら、暦は智に尋ねた。
「あのお香さ」
「ん? 」
「何か入ってる? 」
「何かって? 」
「エッチになる、薬、とか」
「入ってないよ」
 智は笑って、暦の頬にキスをする。よみはとうに外しているけれど、智の顔だけは、近視で乱視の者の持つ曖昧な世界の中、はっきりと見える。愛の力だな、と水原は思って、けれど絶対口には出さない。
「お香はさ。燃えるだろ。煙だすだろ? だからさ、息苦しくて、溺れたみたいに頭がぼおっとして、エロい気分になるんだよ」
「本当か? 智」
「適当」
 お互い顔を見合わせて、照れたみたいに二人で笑う。暦は布団に顔を押し当てる。智のにおいがする。一杯にそのにおいを吸い込んで、じゃあさ、とよみ。
「放火魔とかも、そうかな」
「へ? 」
「燃える煙吸って、気持ちよくなるために、火事をおこしたい、とか」
「あー。変態の考えることは、わからんね」
 呆れたように肩をすくめる智に、なんだよそれ! まるで私が放火魔みたいじゃないか! と暦が叫べば。
「火、つけるじゃん、よみは」
「何に! 」
「わかんないなら、いいよー」
 そう言って智は上半身を乗り出すと、貝殻にもう一つ、新しい香をのせてライターの火打石をこすった。燃え上がる火。ぐっと伸びた智の肌はすべすべと張りがあって。暦はそっとその背中に手をおいて。なあ。智――。
「また、お香、つけるのか? 」
「よみはこのにおい、嫌い? 」
「嫌いじゃないけど、なんか海の底にいるみたいで、溺れそうだ」
「ふーん」
 感心したように相槌を打って、じゃあ、君は、またエッチな気持ちになるのかな? と言う智に、いやあまあどうだろう、と暦が照れ笑いに言葉をぼやかした。そうすると、智。振り返って、あたし。


417 名前:『土曜日に溺れる』【15】[sage] :2005/12/17(土) 12:42:26 ID:AQlmfHKU

 

「よみに溺れたい」

 煙一条、すうっ。
                        (了

 

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