「アチチ」
ライターの持ち方が悪かったか。ライターが熱くなって、思わず手を離す。指をかすかにパタパタしたら、その時起きた微かな風で、燃えていた香の火がふっと消える。
「あ」
消えた炎の跡から、すうっと一筋、煙が立った。香は煙を出す前から、微かににおいを発している。そして煙のにおいはやっぱりそのにおいだった。不思議な香りである。鼻に近づければ、かなりきつい匂いなのに、煙になればちょうどいい。
「当たり前か」
呟けば、忙しく、するするすると昇っていく煙が、ゆらゆら揺れた。煙草のそれと違って間断なく高く高く、形を崩さずに、直進していく煙。香はじくじくと燃えていき、灰はそのまま白い塔になっている。
へえ、燃えても、灰は崩れないんだ。
確かに貝殻には、香の死骸が二つ、横倒しになっている。ずいぶんしっかりした形だったから、気になって手にとってみようとして。
「あちちっ! 」
誤って、燃えている香のそばを、指でかすめてしまう。豆粒程度だから、見逃していた。小さくとも火は火である。まして十二月に入って雨は一度も無い。よく燃えるのだ。燃えきっていない円錐が倒れて、けれどその形はそのままに燃える。
倒したままで最後まで燃えるのかな? 起こそうかと思って、けれどそのまま放置して、貝の上の灰を、今度は用心深く、指でつまもうとしてみる。つまめない。指でつまもうとした跡だけが、微かな窪みになっている。
「どうするかな――」
一計を案じて、指を唾で湿らせ、触れてみた。今度はその姿を捕らえる。ただし一部だけである。円錐の一部が崩れて張り付いて、暦の指にべったりと貼りついている。女性らしい、しかし重みのある、指である。親指でぐい、と灰をこすってみた。
「へえ」
指先に、細かな灰が、ただの白い筋になった。ざり、という感触が、幻ではないかと思うくらい脆い。ためしに舌の上に乗せる。無味である。けれど今度は確かに、ざり、と細かな細かな舌触りがした。
煙草の灰とは違うのだな。煙草の灰を舐めたことは無いけれど、煙草の灰は均一の灰ではない。乾燥した葉を紙で巻いたものだから、燃えれば灰の形も色も何もかも違う。
そうか。
煙草の煙がずっと一直線に昇らないのは、燃えたまま放置されるわけではないからだ。口で吸うために上げ下げして、吐く息吸う息に踊らされる。そういえば初めて吸った紙巻は、しばらく煙の立ち上るのを見ていたな。するする、するすると。
傍らに置かれている、紙の箱を取上げてみる。中央のビニールフィルムから、幾重にもなった蒼い香がひしめいている。香の名前は、オーシャンブリーズだ。海の吐息、か。なるほど、言われればそんなふうに言えるにおいかもしれない。
そっとベッドを背にして、もたれかかってみる。頭をベッドにのせてみると、煙った天井が見える。眼鏡を外す。目をこすってみる。焦点を合わせていたグラスの外は、曖昧な世界である。それが煙でより曖昧になる。
青い匂いがする。煙がもろもろしている。ため息をつく。その息に煙が一足遅れて、ゆわん、と動く。わずかな風に反応するのである。側にあった漫画を手にとって、一、ニページめくって、またため息をつく。はあ。煙がゆわんと動く。
トントントン、と軽い足音が上ってきた。トントントン、ぱたぱたぱた、そしてざらっとふすまが開いて。
「よみ、昼飯、できたぞ」
「わかったー」
呼びに来た智の声にけだるく答えて、顔を上げると、充満した煙に眉をひそめた友が。
「お香炊いたんだ」
「うん」
「よみ、煙草も吸ったろ」
「吸ってねーよ」
ワインを口に含めば、ポテトサラダの後味が、さっと溶けて消える。赤ワインのタンニンに耐えうるだけの力が、ポテトサラダにはある。
「サンマ、何かかってるの? 」
「まあ、食べてみてよ」
けげんな顔で暦が尋ねるのは、見慣れない濡れ方をサンマがしているからだ。じっくり焼かれたサンマ、皮は所々焼け焦げて、脂でてらてら光って。けれどそれは上からかけられた汁に、しんなりしている。皿の底には少し汚れた赤い汁がたまっている。
「まさか、赤ワイン、とか? 」
智はにやにやして、答えない。一つまみ箸でむしって口に運べば、汁をかけられてもまだ温まっているサンマの肉である。湯気を立てているサンマの肉がある。そして暦は、サンマにかけられたのが酢であることを知る。
「うま! 」と言えば、にやにやしながら智。
「だろーぅ? 」
3
ついにワインを一本空けてしまった。午後一時の一時は、大抵昼食の投了戦から始まる。暦は一足先に、少しふらつく足で、コーヒーメーカーを抱えて階段をのぼる。ぎしっぎし、と階段が鳴いた。じきに皿洗いを終えた智が、食後のお菓子を持って上がってくる。
ざら。
ふすまを開ければ、ふ、と蒼い潮のにおい。放っておいた香の火はとうに消えている。しかし香のかおりはある。その残り香の中、コーヒーメーカーをセットして、窓を開け放つ。酔いの回った頬を、十二月の風が撫でる。乾いている。空気が入れ替わる。
そうして暦はまたベッドの脇に腰掛けて、鞄からリップを取り出した。唇に塗る。乾いている。
シュ、ヲ、オ。
蒸気の音がして、蒸されたコーヒーの液が、ビーカーのような耐熱ガラスのポットに注がれる。手持ちぶさたになって、鞄の中から、今度は煙草を取り出して火をつけた。すかーっと煙が上がった。ふう、と煙を吐く。
あ、舞い上がった。
リップを塗ったばかりの唇に、ぺたり、と煙草の吸い口が吸い付いた。普段はレポートや勉強に集中するための道具である。食後の一服の習慣は、暦には無い。今吸っているのは、さっきの香の煙の影響だ。ふかせば、乾いた冬の空気に、煙はやんわり溶ける。
さっきの漫画を手にとってみる。今度は三、四ページめくって、煙を吐いた。むこうから、とんとんとん、とリズミカルな足音。
「それは灰皿かもしれないけど、吸殻入れじゃないよ」
部屋に入ってきた智は、お皿に盛ったクッキーを暦の側に置いて、きつい声で言った。
「わかった、携帯灰皿に入れる」けちなこと言うなよ、と言うのを飲み込んで、鞄をまた一探り。取り出した携帯灰皿に、吸殻をねじ込んだ。ぎゅっ。そっと視線を上げると、まだきつい智の視線。まずいなあ。智は煙草が嫌いなのだ。
「よみ……」
「は、はい」
神妙に答える暦に、滝野はぷっと吹き出して。
「お前また太ったろ! 階段ギシギシ言ってたぞー! 」
嫌味な笑い声に思わず。
「うるさい!! バカッ!! 」
「タンニンにさ、サンマの肝が合うんだねえ」
記憶の中で反芻して、暦はにこにこする。コーヒーの香りがいい。満足してぼうっとする。智の目は酔ってとろんとしている。頬は赤くなっている。暦が智の額の髪を撫で上げると、しっとり汗ばんで光っていた。風が涼しい。
「ワインビネガーって、あんなに合うんだな」
「ん」
「あれ、赤だろ? 」
「そ、今度は白で試してみるつもり」
今度は智が、暦の髪をすき上げた。さらさらと暦の髪の毛が流れて、指から零れ落ちていく。
「煙の匂いがする」
暦の髪のにおいを、くんと嗅いで、智が囁いた。煙草? と聞き返されて、違うよ、さっきのお香のにおい。
「でも、そんなにここには長くいなかったぞ」
「においって、けっこうバカに出来ないよ。きっと今、あたしサンマのにおいするし」
そう言って智が笑って、そっと暦の肩に頭をもたれかけさせた。
「サンマの? 」
「さっきまで、焼いてたからさ」
暦は、智の頭をくんくん嗅いでみる。近づいた智の身体に触れて、ジーンズ地のワンピースを感じる。固くごわごわした感触。智が羽織っているカーディガンは、何度も洗濯して地の青がすっかり色褪せた空色。中学の頃から使ってると聞いた。
「お前のにおいしか、せんぞ」
「え? そう? 鼻悪いんじゃない? 」
そう言って智は、立ち上がって、窓を閉めに行った。白地の薄いカーテンも閉めた。厚手の緑のカーテンは閉めない。さっと薄暗くなる室内。
「智」
「なに? 」
「そのカーテンも閉めればいいじゃん」
「いらないよ。光が反射して、中まで見えないって。それに」
昼まっからカーテン締め切るなんて、何か意味深じゃん。笑う智に、あそ、と答える暦。何を今更。
「高校を卒業してさ」
隣にストンと座りなおした智を見やって、暦が言う。唐突な話の流れに、滝野はまじまじと暦の顔を覗きこんで、はあ、とうなづいた。
「高校卒業してさ、何かいろいろ変わったって思わないか? 」
「べっつにぃ」
明るい声に、暦は、む、と言葉に詰まる。そんな水原を放っておいて、智はごそごそと何かやりだした。何してるんだよ、お前。えへへ、べっつにぃ?
香だ。
香を炊いている。
貝殻の上に無造作に置かれた円錐の小さな青い香。智の細い指が、香をライターで炙っている。火を離せば、しばらく頭上で燃えて、さっと煙に変わった。一本の筋がすうっと上っていく。また海の香り。
「はまってるの? 」
「なにに? 」
「お香に」
尋ねれば、智の答えは、ううん、気まぐれ。
「シェフの気まぐれサラダなみに、気まぐれ」
「なんだよ、それ」
言ったとたん、暦は口をふさがれた。智に押し込まれたクッキーに。口元をもぐもぐさせて見れば、智はえへへと照れ笑い。
「幾らした? 」
「100円ショップ」
「貝殻は? 」
「先日の晩御飯の、残り」
注ぎ足してもらったコーヒーで口を洗えば、暦の口の中の甘い余韻が、さっと溶けて苦味に変わった。
「やっぱり変わったな」
智の言葉に、何が、と聞き返せば、高校卒業してさ、との答え。
「どこが」
「よみが、コーヒー、ブラックで飲めるようになった!! 」
はしゃいだ歓声をあげる智に、暦がベッドの上の枕をぶつけた。
「私は元々ブラック派だ! 」
「クリームと砂糖たーっぷりのなー」
「何も足さないし、何も引かない!! 」
「へー、以前ちよちゃん家でブラック飲んで。
――ニガ。
とか言ってたじゃーん! 」
「言ってねえ! 」
バスン!
もう一度叩きつけられた枕に、わぷ! と智が言った。
「いーじゃん、こうしてコーヒー飲めるようになったんだからさあ」
ぽい、と枕をベッドの上に放り投げて、ニヤニヤ笑う智に、顔をしかめて赤らめて。
「苦味も旨みに感じられるようになったんだよ! 」
「だから煙草、吸うんだ」
「な! 」
思わぬ攻撃に、暦があんぐり口を開けると、ニヤニヤ笑いのまま。
「煙草吸ったら、健康な赤ちゃん、産まれないよ」
「妊娠したら、すっぱり止めるよ」
「へえー。まあ、よみみたいなの、もらってくれる男の人がいたらいいけどねえ」
ぐいぐいぐい、と一気にコーヒーを煽って智は、コーヒーメーカーの電源を落とす。ぱちん、と音がして、稼動ランプが消える。ポットのコーヒーをもう一度、暦のマグカップに注ぎきって元の位置に戻すと、熱の残っているプレートが、じゅん、と音を立てた。
「……どうした? 」
継ぎ足されたコーヒーを暦が飲み干す数分の間、とっくに飲み終えた智は、膝を抱えたまま一言もしゃべらない。しん、とした様子に心配になった水原が。
「どうした? 」尋ねれば。
「嫉妬した」
「は? 」
「よみが、結婚するかもって思ったら、その男に嫉妬した」
「それ言い出したのお前の方だろ!! 」
「うるさい! このボケ眼鏡――っ!! 」
今度は枕をぶつけるのは、智の番だ。ぼすん、とぶつかって、暦。――てめえ、本気でやったな……。詰め寄る暦に、そっぽを向いた智が、ふん、と鼻を鳴らした。すねているのだ。
「――ったく」
口の中にあった言葉を噛み潰して、暦は残っていたコーヒーを飲み干した。コーヒーの香りに混じる、香のにおい。ふ、と顔を上げれば、たなびく煙、ゆら、ゆら。もうこんなところまで版図を広げたか。帯のようにたなびき、幾重にも折れ、溶けている。
深く息を吸う。吐く。
煙がぽんとはじける。そっと手を伸ばす。漂い群がる煙が一拍置いて、ふわん、と流れた。風だ。微かな動きに、風が起こったのだ。動けば風になる。風は拡散して溶けていく。次の風を起こすために。
煙を眺めていたら、細い筋がふっと途切れた。香が燃え尽きたのだ。
「智」
「ん? 」
「火、消えたよ」
「新しいの、つけていいよ」
よっこらしょ、と智は起き上がって、側の箱をとった。蓋を開けて中からビニールの袋を取り出した。青い色の円錐。はい、とつまみ出して暦に手渡す。
「やってみ」
「うん」
うなづいて、かたわらのライターに手を伸ばそうとすると、そんなの要らないよ、との声。
「え? 」
「その灰に、お香の頭、突き刺してみなー」
まだ燃えているのか? まさかと思って灰に突き立てると、柔い灰にさっと通って、固い芯に突き当たった。赤く燃えている、火種。瞬く間に一条の煙。
「早いよ、まだ」
もういいかなと思った暦に、智が押し留める。
「火を感じたら、いいよ」
火を感じるとは何のことか。わからないが、そのまま差し込んでいれば。
アチ!
ちり、という感覚に慌てて引き抜けば、摘まんだ香の先には一灯の赤。煙の筋、一本、すうっ。貝殻の上に新しい香を立てながら、暦。
「まだ燃えてたんだ」
「灰の下に隠れてね」
「でも煙出ないね」
「残り火だからね」
「こっち消えるね」
「残り火だからね」
言い合ううちに、すうっと灰に埋もれていく赤。
あ、消えた。
「火が移ったからね」
新しい煙は立ち上り、溶けて、部屋の中にその密度を増していく。立ち込める海のにおい。曖昧な世界。煙に溶けて曖昧な世界。そっと、左手に感触。智の右手。
「ねえ、よみ」
「なんだよ」
「右手、貸して」
「なんで」
「いいから」
ほれ、と差し出す右手を見て、やっぱりついてるね、と智が言う。ついてるって何がだよ。灰が。灰? 怪訝な顔をする暦に、にやっと笑って。
「きれいにしてあげるよ」
暦の指先を、くん、と嗅いで、智は暦の指を口に含む。こすってとったつもりだった灰は、微かにその白い指を曇らせていた。それを舐めて取ろうと言うのである。
「ば……! 」
声を上げる暦にそしらぬふうで、ゆっくり智は指を味わう。舌でよみの指の形が分かる。爪、爪の先、指紋、第一関節のくびれまで。前歯でそっと噛んでみて、けれど舌は優しく指の形をなぞる。
「……か――」
ののしろうとして言葉につまり、ごく、と唾を飲む暦を見て、智は満足しながら、指のお遊びを続ける。静かな部屋の中で、ちゅぱっちゅぱっと唾液のはぜる音。鼻の奥で、よみの触れた香のかおりを楽しむ。無味である。けれど鼻腔は、敏感に香りを捕らえる。
「くすぐったい、よ……」
喘ぐ暦を無視して、智は彼女の右手指先の残り香を楽しむ。水原の左手の甲は、優しく撫ぜられて、ひくん、と身をよじった。そっと智はしゃぶっていた指から口を離して、そっとよみの耳の後ろのにおいを嗅いだ。そして。
「変わったとこ、あったよ」と囁く。
「な、に? 」
「よみの身体に、新しいにおいが加わってる」
「なに」
「煙草の匂い」
「嘘! 」
驚いた暦は、慌てて自由になった右手で以って髪の毛をつかみ、自分の鼻にあてた。
「――え? ほんとに? 」
「自分の出してる匂いって、気づきにくいもんね」
髪には篭るから、よく嗅いだらわかるよ。そう囁く息はねっとりと熱いから、暦はまた身をよじる。くすぐったい? よみ?
「……っ! ん、んぅ――」
荒い息遣い。耳の後ろにそっと舌を這わせた智は、今度はおおげさにクンクン匂いを嗅いで。いいにおいがする。その囁きに、嘘つけ、とよみは返す。煙草の匂いがいいにおいなわけないだろ!
「煙草の匂いだけならね。でも――」
――もうよみの身体に混じっちゃってるからさ。
そっと噛まれた耳たぶに、ああ、と暦は喘ぐ。そんな水原のうなじの火照ったにおいを、智は横隔膜が広がりきるまで吸う。思わず腰がびくん、と跳ね上がる、よみ。くっと奥歯を噛み、犬のように匂いを嗅ぐ智の尻に、そっと暦の手のひらが触れた。
「あは! 」
溜め込んだ息が、暦の肩ではぜる。ぜえぜえと息を吐いている。暦は智の尻を撫ぜる。スカートは青いジーンズ地だ。けれどその固い生地の下に、しなやかな彼女のお尻を感じる。はりのある、滑らかな手触り。汗をかいているのまで分かる。
「ハーン、ハァーン、ハアァ――ン」
みっともないくらい、熱い息が、よみの肩口を湿らせる。我慢してたのかな、智。こうやって喘ぐの。
「はあぁん、ああああん、あああ、あん。ア、ア、はあはあ、は」
じわりと智の目尻が潤む。双丘の谷に指が押し付けられたから。固い生地なのに、指の形にへこんで、窪んで、中身の濡れ始めた下着越しに動きを伝える。暦の右手の、中指の動きを。
「智」
「んぁ? 」
「いいにおいがする」
「ぇ? 」
とものはつじょうしたにおい。
顔を見合わせる。溶けた瞳で見つめあって、溶けた瞳を認めあって。キスをする。音を立てて。唇と唇で、舌と舌で。コーヒーの香りはしなかった。ただ舌には、ローストした豆の苦味がある。
「よみ」
「ん? 」
「お酒のにおい、するよ」
「サンマの、ッハア……、に、おいは――? 」
「する」
すぱっと言って、智は、でも気にならないよ。
智のにおいは、煙の匂いと、ワインの匂いと、唾液の匂いと、お昼ご飯の匂いと混ざってすぐに溶けて、二人の匂いになる。甘い香りになる。
ねえ、智。なに? なんでもない。ふふふ。……アッ。どうしたの、よみ? ばか、いじわる。
どちらがどちらの囁きか分からないくらい溶け合った声の中、キスしながら智は、そっと指を暦の着ているセーターの下にもぐりこませる。
「ひ! 」
暦が声を詰まらせたのは、智の指先がひんやりしていたから。
「よみのおっぱい、あったかーい」
「へ、変なこと言うな! 」
「おっきーし、やわらけー!! 」
「智。冷たい指、禁止」
「えー? 撫でて欲しくないの? 」
「……いらない」
「もー! つれないこと言うなよ!! 」
言いながら、智の指は、ブラジャーの上からそっと暦の胸に触れる。そっとそっと、もどかしいくらいに、そっと。よみは、知らない! とでも言うように顔を背けて、それでも目は閉じないでそのままでいる。智は観察しながらさすり続ける。その細い、ひんやりした手で。
「お香に火をつけるときにはさ」
智のおしゃべりにも、死んだみたいに身じろぎしない水原。まるで聞こえないみたいに。そんなことには気づかないような顔で「じっと待つんだよ」と明るい声で、智。
「よみも感じたろ? 火が移ったらさ、その感触があるんだよ。ふっしぎだよねえ。どんなに煙が出てても、それを感じないと火がついていないんだよ」
暦は答えない。魚の目みたいに感情のない瞳。けれど智はけして急がない。
柔らかい暦の乳房は、厚手のブラジャーに覆われている。ふちのところにはフリルがついている。その部分まで撫で上げて、今度智の指はそっと乳首の辺りまで戻って、親指の横腹でこすってみる。左右に、左右に。
乳房の奥が、固くなっている。弾力が楽しい。乳首はすっかり固くなっていて、よく我慢できるものだと思うくらい。そっと膝を水原の股間に当ててみる。暦のズボンは芯の強い綿なのに、そこがどうなっているのか、手にとるようにわかる。
「よみはどうなのかなあ? すごく興味あるなぁ。おっぱいでよくなってるのかなぁ。それとも、初めからよくなっちゃってるのかなぁ」
水原の眉間に、皺が寄った。けれどその瞳は、動かず揺らがず静かなまま。よみの首のつけねがつっぱっている。乱れた髪の奥から覗く、襟足が震えているのが分かる。
「ブラの上からさあ、固くなってるのがわかると、ハァ、あたしまで、きもちよく、なっちゃう。すっごい濡れちゃう」
わざと息を乱して言うと、よみの首筋が、ぞわわっと粟立ったのが分かった。ごくり、と唾を飲む音。もう智は分かっている。よみの身体に火がついているのを。それなのに、焦らして焦らして。
「よみ、かわいー。すっごいかわいい。エロいオッパイさすられてさ。恥ずかしいエロ乳。膝で触ってもわかるよ。よみのここが、すっごい感じてるの。やっぱりよみはえろいなあ。おっぱい――」
智のいやらしい声が、ぴたりと止まる。シン、と凍りついた空気。よみが真正面から、ともを睨みつけているから。暦の眉間に刻まれた深い皺。つりあがった眉。口はへの字に曲がっている。しまった、やりすぎたか。智の心臓が、ひやり、とする。
「よみ――。あの、怒った? 」
恐る恐る尋ねれば、怒った顔のまま暦は、さっと両腕を滝野の首に巻きつけて、そのまま乱暴に引き寄せる。
「はふ。は、ぁふぅ――。は、は、ぁハ……」
「……んぁ――よ…みぃ? 」
「はっはっ、はぁ、ハー。ハー。ぁん。うん。ウム――」
ぺちゃぺちゃと舐め回すこよみのキス。強い力で抱きかかえられて、智は全く身動きできないでいる。リップクリームに潤んだ唇が、ひたり、と智の頬に食いつき、離れ、舌が這い、その度、涎が、息が、智の淫らな心を刺激する。
「くるしいって、よみ」
「だめ。だめあたし、もうだめ」
「よ、み? 」
「だめぇ。あたし、もう、だめぇ」
だめ、だめと言いながら、腰がうねり、やがてそれは智の膝に押し付けられる。ズボン越しに膝を捕らえると、狂ったようにこすりつけながら。だめえ、あたし、あ、あ、あ。ともきもちいい。涎が、しっとりした唇から溢れそうになっている。
「――ぉ、み……」
すっかり快楽に燃え上がった暦を見て、智の胸の奥が苦しくなる。何かがせりあがってくるような感覚。何もされていないのに、乳首がぎうっとつままれたような、快感。それから腰の奥がひくひくする、もどかしい感じ。お尻を撫でられてたときより、ずうっと。
「こよみ、いやらしい」
スカートの下の、パール色のシルクのパンティの奥。その濡れそぼったところで、女の持つ小さなペニスが、快楽を求めて熱を持っている。充血している。だからお腹の奥の方から腰が、ひくんひくん、動く。
息苦しさに喘げば
海の吐息のにおい
それから智の吐息
熱く甘い暦の吐息
引き剥がしていく
衣服と下着と理性
二人で絡みあって
濡れそぼっていく
涎と汗と愛液と欲情に
「とも、すき」
「うん、すき」
「とも、すき? 」
「あたしも、こよみ、すき」
「……んあ」
「いい? 」
「いいよぉ」
「だいすき」
「うん、だいすき」
言葉は溶けて、二人の密度を増す。立ち篭めた二人のにおい、甘えた声。ワインの香り、お昼ご飯のにおい、コーヒーの香り、智の部屋のにおい、二人の汗のにおい唾液のにおい。
「あ、はぁぁっ!! 」
一際高く鳴いて、窒息する。
満ち満ちた香のにおいと、喉までせりあがった欲情の渇きに。
お互いを求めて、乾いている二人。
だからよく燃えるのだ。
「よみに溺れたい」
煙一条、すうっ。
(了