807 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:40:18 ID:ScT29253

榊は愛猫マヤーと戯れていた。その光景は、獣医を志す女子大生としては特別奇異な
ものではない。その猫が特別天然記念物であることを除けば。迂闊に外に出すわけには
いかないので、榊は殊更マヤーとの時間を大切にしている。外に出してあげられない分、
自分がかまってあげなければならないと。もちろん友人のことも大事にしているから、
友人の頼みを断ることはしない。だから、かねてからの予告通り、今日自分を訪ねてきた
神楽を快く招き入れた。神楽になんとなく元気が無いことを気にしながらも。
「お、マヤー元気か」
 さっきまで榊がしていたように、神楽がマヤーと戯れる。だが、そんな神楽の様子に、
榊はどこか白々しさを感じずにはいられなかった。神楽はよく榊を訪ねてきていた。なぜ
来てくれるのかという問いに、神楽は『来たいんだからいいじゃん』というシンプルな
一言だけで返した。榊はそんな素直に振るまえる親友を好きだったし、尊敬もしていた。
それだけに、今の神楽の態度には何か引っかかるものがあった。約束をとりつけてまで
訪ねてきたからには、榊本人に用があるはずなのだが……。
「何かあったのか……?」
 その言葉に、神楽が動きをピタリと止める。マヤーが神楽から離れていった。
「私の勘違いならそれでいい。だが私に話せることなら話してほしい。君は私に何でも
話してくれたじゃないか」
 それでも神楽は答えようとしない。榊は待ち続けた。神楽が黙秘しようとしているの
ではなく、一生懸命口を開こうとしていたことがその様子から伝わってきたから。
「そ、そうなんだよな。お、俺が榊に会いにきたのは……」
「……俺?」
 完全に予想外の単語に、さしもの榊も目を丸くした。

 

808 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:41:10 ID:ScT29253

「やっぱりおかしいよな、私が俺って言うなんて」
 罰が悪そうに目をそらしながら弁解する。
「友達がさ、『神楽さんは俺って言いそうな感じだね』なんて言うんだ」
「……私から見ればおかしいが、初めて会った人なら印象は違うかもしれない」
 何と答えていいかわからず、思ったことをそのまま言葉にした。最も無難な答えとも
いえる。
「そんなことはどうでもいいんだ。それでな……」
 再びしばしの沈黙。『俺』云々のためにここまで来たのではない、と神楽は自分に言い
聞かせ、しかしそれでも自分がここに来た目的を口に出すのは躊躇われ、視線を巡らせる。
 ふと、その視線がある一点で定まった。そこにあったのは鏡台と、その前に並べられた
化粧品の数々。神楽には何をどう使えばいいのかさっぱりわからない品々。
 ――榊には、化粧した姿を見せる相手がいるのか――
 神楽の胸に湧いた疑問。それと同時に、別の感情が湧いたような気がした。
「化粧の仕方がわからない……?」
 神楽の視線を察した榊が尋ねる。煮え切らない態度の親友に、榊なりに気を使ってやった
つもりだった。以前の私にはできなかっただろうな、と過去の自分を振り返る。
「そ、そうなんだよな。ほら、私って水泳部だからそんなに化粧するないじゃん。なんか
周りが色々言ってるんだけど何やったらいいかさっぱりわかんなくてさー」
 神楽が一気にまくしたてる。顔が少し赤くなっていて、動揺がはっきりと伝わってくる。
 確かに、化粧に関する頼みごとなんてやり辛いだろう――榊は勝手に肯いて、もう一言
付け加える。少しはこの親友の積極性を見習ってみようと。
「化粧、してみようか……よかったら、私がやってあげよう」
「……へ?」
 今度は神楽が目を丸くした。

 

809 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:42:39 ID:ScT29253

断る理由もなく、神楽は鏡台の前の椅子に座った。鏡の前に数本の容器が並んでいるが、
これらの内容物にどんな違いがあって、それぞれどのように使用するのか、神楽には全く
想像できなかった。
 神楽は鏡を見つめ、自分の後ろに立っている榊の姿を確認した。榊とはそれなりに長い
つきあいだけど、こんな位置関係になったのは初めてかもしれない――そんなことを神楽は
考えていた。神楽と榊の位置関係。神楽と榊の関係。親友といって間違いないが、全てを
知り尽くしたわけでもなく、全てをやり尽くしてもいない。ましてや化粧など初体験だった。
 初体験。その単語に、神楽の体がわずかにこわばる。
「そんなに緊張しなくていい」
 いつのまにか神楽の肩に手を置いていた榊がそれを察し、やんわりと諭した。
 榊に任せてしまえばいい……神楽は落ち着いて肩の力を抜く。
「本当は普段からスキンケアするべきなんだけど、今日はメイクから始めよう」
 榊は並んだ容器のうちの一つを手にとって、もう片方の手にスポンジを持った。
「まずはファンデーションだ。『基礎』を意味するように、しっかりやっておかないといけない」
 榊は後ろに立ったまま始める。その右手にもったスポンジが神楽の頬に優しく触れた。
自分の頬に柔らかいものが触れる感触に、再び神楽の体がこわばる。しかし、これをやって
くれているのは榊なのだと自分に言い聞かせて、緊張を解く。
「こうやって伸ばしていくんだ」
 榊の言うこうやってがどうやってなのかは神楽にはわからない。だから神楽は、榊の
手つきを堪能することにした。スポンジごしに伝わってくる榊の指使いはとても優しく、
心地よかった。この指になら――この指を持つ榊にならば、全てを任せてしまってもいい
と、心からそう思えた。
 やがてファンデーションが顔全体に伸ばされてゆく。その結果、どう変わったのかは
自分ではわからなかったが、少なくとも榊を見る目つきは変わっていると自覚していた。

 

810 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:44:47 ID:ScT29253
「次は、頬紅をつけようか」
 スポンジを置いて、今度は刷毛のようなものを手に取った。
「もちろん、これも頬から塗るんだ」
 ファンデーションのときよりも気を使うのか、単に榊の流儀なのか、神楽をもっと近くに
見れるように、少し前に身を乗り出した。結果として、後ろから神楽を抱くような形になる。
同時に、その動作に榊の長く艶やかな黒髪がなびいて、その柔らかい匂いが神楽の鼻を
くすぐる。
「あっ……」
 不意を突かれた神楽は、緊張しないかわりに心拍数がはね上がった。急に近くなった榊の
存在、そして榊の匂い。――他人の匂いを気にしたことも始めてだった。
 榊がどんなシャンプーを使っていようと、そんなことは関係なかった。どんな香料を
使ってもこの香りは出ない。これは榊の匂いなのだと、そんなことを考えていた。
 そして、もう一度それが香ってくることを心待ちにしていた。もう一度髪をなびかせて
くれないかと。もう一度その匂いを私に届けてくれないかと。
 榊が刷毛で何をしてくれたのかなど、全く覚えていなかった。

「次は……アイブロウかな。眉の形で人の印象は結構変わってくるんだ。神楽はそんなに
いじらなくていいと思うけど……」
 また別な道具をとると、今度は神楽の前に回りこんできた。そのとき、榊の髪の一房が
神楽の唇を撫でた。
 ぞくっ。
 未知の感覚が神楽を襲った。
 今のはなんだろう。
 人間の唇はそういう感覚を持っているということを、初めて意識した。
 なぜ恋人はキスをするのか、その理由を始めて理解した気がした。
 気がつくと、榊の顔が急激に迫ってきた。
「お、おい……」
「動かないでくれ。私もするのは初めてなんだ」
 あくまで真剣な榊。しかし、神楽は自分の顔が熱くなるのを感じていた。なにせ互いの
息がかかるほど近くにいるのだから。
 今の神楽には、眼前にいる榊しか見えなかった。榊の眼差しは真剣そのもの。その眼を
向けられるたびに気分が高揚していたことを思い出す。高校時代の青春の一ページ。
 そして、顔が眼前にあるということは、唇も眼前にある。一度榊のそれに視線を合わせる
と、もうはずせない。榊の唇を見つめながら、さっきの感覚を思い出す。ほんの一瞬、髪で
撫でられただけでもあんなになるのなら。
 唇と唇を触れさせたら……?
「神楽、目を閉じてくれないか」

811 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:46:14 ID:ScT29253

「え、え、うぇ?」
 あまりの動揺に、まともな言葉を紡ぐことすらできない。
「アイラインを引くんだ。目を閉じるのは不安かもしれないけど……」
「あぁ、そ、そ、そ、そうだよな」
 言われるままに神楽は目を閉じた。榊からしてみれば言ってることとやってることが
食い違っているように見えたが、神楽が自分に身を任せてくれるならば、自分も神楽が
求めているものを与えてやらなければならない、とより一層顔を引き締める。
 目を瞑った神楽にそれが見えるはずもなく、瞼の裏で想像だけが一人歩きする。榊が
次の瞬間、何をしてこようとも対応できない。何をしてこようとも……。
「ちょっと、ごめん」
 榊の左手が神楽のあごにかけられ、くいっと顔を上げる。神楽は、自分が榊の顔を見上
げる形になったことを悟る。そして、その動作は自然とある行為を連想させた。さっき意識
したばかりのその行為を……。
「終わったよ、目を開けていい」
 残念だったような、安心したような、そんな複雑な気持ちを抱えたまま、榊の言われた
とおりにする。その目は、普段の勝気な性格からは考えられないほどうっとりしていて、
化粧とはまた違った理由で、神楽の外見の印象を変えていた。見る者に怪しい倒錯感を
覚えさせるほどの……。
「……やっぱり、目を閉じててほしい」
 神楽はそれに素直に従った。榊に全てを任せると決めていたから……。
「……ルージュを引く」
 鈍い神楽でもわかった。その口紅を榊は使ったことがある。それを神楽にも使うという
ことは……。
 神楽の唇に、柔らかい何かが触れた。

 

812 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:48:04 ID:ScT29253

それは指なのだと、すぐにわかった。口紅のスティックそのものではないことになぜか
がっかりし、しかし自分の唇を榊の指が触れているという現実は、その数倍の高揚感を
もたらした。
 あんなにも長くてしなやかな榊の指。不器用で生傷が絶えないけど、綺麗な指。それが
今、神楽の誰にも触らせたことのない場所に触れている……。
 指はピンク色のそこを丁寧になぞる。そこは特別に敏感に反応するように出来ていて、
指に柔らかく刺激され、神楽に未知の感覚をもたらす。正確には、ついさっき知った
ばかりの、女を虜にする感覚。ある種の感情と直結する感覚。
 全てを任せると決めた、その指を神楽は求める。しかし甘美な時間は永久に続くことは
なく、指が離れた。名残惜しげにその余韻に浸る。なぜ榊が指を使ったのか、その理由を
考えることもなく。
「一応これで終わったけど……どうかな」
 神楽自身の感覚では、これが他人にどういった評価を受けるのかは計り知れなかった。
しかし、自分が明らかに変わったということだけは理解できた。顔に多少の色をつけた
だけでこんなにも変わるのかと驚くほどに。
 顔の造詣とか陰影など本質的な問題ではなく、最も劇的な変化があったのはその目
だった。あどけない少女が大人になったがゆえの目。
「なんか……よくわからないけどすげえ」
「今回のは私のやりかただったから……自分なりにやってみるといい」
 その言葉に、少し前に浮かんだ疑問が再浮上し、思わず問いかける。
「なあ、榊には化粧してみせる相手がいるのか?」
 あまりにストレートな質問。回りくどいやりかたは、神楽には思いつかなかった。
「いや……親が勝手に送ってきたんだ。もうそういう年頃だからって。獣医志望の私と
してはあまり化粧するわけにもいかないのだが……」
「ぷっ」
 神楽の笑い声がそれに続く。静かだった部屋が突然騒がしくなり、マヤーがわずかに
警戒した。
「何がおかしいんだ」
「いや悪い、私の勘違いだったんだなって」
「……?」
 怪訝そうな顔の榊にかまうことなく、神楽は言葉を続ける。
「でもよかったよ。これで躊躇いなく話ができるからな」
「話? 化粧のことを話しに来たんじゃないのか」
「え? 私はそんなこと言ってないぞ」
 話がかみ合わず、両者ともに頭の中に疑問符が浮かんだ。

 

813 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:48:46 ID:ScT29253

「私が来たのは、ちょっと話を聞いてもらいたかったんだ。……恋愛相談ってやつだ」
 その手の話題がどうにも苦手で、二人とも目を合わせようとしない。榊はマヤーを抱き
ながら、親友の話に耳を傾けた。
「後輩の女の子に告白されたんだ。さっきは友達って言い方したけどさ。……体育会系
ではそういうことが結構あるらしいんだけどな。お前って結構女子にモテてたじゃんか」
「そういう人たちに言わせれば私はかっこいいらしいが……私にそんなつもりは全く
なかったんだ。私にそういう面を求められても困る……」
 君だけは違うけれど、と胸中で付け加える。
「そうなんだよ。その子も私のことをちゃんと見ているのかわからなくてさ。だから
まともに返事もできやしねえんだ」
「つまりその後輩は君の男性的な面だけを見ているのではないかと……?」
 榊にとっては身につまされる思いだった。他人が自分を正しく見ているのかと不安に
なってしまう。榊は、そのせいで無意味に周囲に壁を作ってしまった時期があった。
「だけど榊のおかげでなんとかなりそうだよ。これからその子に会ってくる」
「……今すぐ、か?」
 自分が神楽の力になれたことを嬉しく思う一方で、そんなデリケートな問題に自分が
関わっていいのかと不安になる。
「まず確かめなきゃどうにもならないからな」
「そうか……それなら、もう一度座ってほしい」
 榊は櫛を手に取る。素直に座った神楽の後ろに立って丁寧に髪を梳いた。
「私の髪なんか……」
 毎日プールに入り、ろくに手入れもしていない。榊のそれにかなうべくもなかった。
「少しでもいいから、髪は優しく扱うものだよ」
 言葉通り、榊は優しかった。一房一房丹念に櫛を通すと、ぼさぼさだった髪が少しだけ
艶を帯びてきた。榊の指が髪をかきわける。全てを任せると決めた指が。榊がもたらして
くれるその多幸感はどうにも手放し難く。
 神楽の返事はすでに決まっていた。

 

814 名前:名無しさん@ピンキー[sage]:2007/04/27(金) 21:50:11 ID:ScT29253

「その……結果次第だけど……もしメイクを落とすなら、またここに来てほしい。
ちゃんとクレンジングしないといけないから……」
「ありがとな。世話になるぜ」
 榊に見送られて歩を進める。その視線を背中に感じながら考える。榊はメッセージに
気づいてくれただろうかと。私はまたここに来るのだと。
 あの子は大事な後輩で友達とも思っている。これから泣かすと思うと気が重い。
「私だって、何でも喋れるわけじゃないんだよ……」
 誰も聞いていないはずだと確信して、ひとりごちた。だが、可愛い後輩を振ってしまう
からには、私も勇気を出さなきゃいけないと自分に言い聞かせる。
 それなりに罪悪感もあるが、はっきり断る決意を固める。神楽にとっての本番は、
榊にメイクを落としてもらってからのこと。
 そのときこそ、榊に本心を打ち明けるのだ。素顔の自分を見てもらうために――

−終わり−
 

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