あの日榊と神楽は珍しく言い争いをした。
いつもは口答えをしない榊なのだが、この時は様子が違った。
榊は譲ろうとはしない、それが神楽を余計に苛立たせた。
だからあんな事を言ってしまったのだろう。
言ってしまってから神楽は後悔し、目を逸らした。
それまで神楽は榊が本当に怒ったのを見たことがなかった。
たまに出る神楽の粗野な言動に戸惑い、注意をすることはしても、怒りを露わにすることはなかった。
だから神楽の心にはどこか榊に対する甘えが芽生えていたのだ。
榊はどんな自分をぶつけても支えてくれる強い女性なのだと。
神楽は榊を見た。
榊の表情からはもはや何の感情も感じ取ることはできなかった。
ただ自分を見つめる彼女の瞳が冷たかった。
初めて見る彼女の姿に神楽は息を呑んだ。
重い沈黙の後、榊はこの部屋から出て行った。
追いかけることもできず、ただ去り際に零れた彼女の一粒の涙を神楽はしばらくの間眺めていた。
骨身に染み入るような寒い冬だった。
それでも街は近づいてくるクリスマスのためか、明るく賑やかであった。
その中を神楽は当てもなく彷徨っていた。
ここ数日、神楽は榊を探しに外へと出歩いた。
この寒空の下、傷ついた榊が何をしているのかと想像するだけで神楽は居ても立っても
いられなかったのだ。
外を出歩く度に榊との記憶がよみがえってくる。
駅前のコーヒー・ショップ、角のゲーム・センター、近所にある小さな公園………。
榊と共によく訪れた場所の、その一つ一つが神楽の胸を強く揺さぶった。
それでも、彼女との思い出を振り返るときは孤独を忘れられた。
もしかしたら彼女はもう自分の元へ帰っては来ないのかもしれない。
実際は榊を探しているのではなく、榊との日々を追い求めているのではないか。
もう二度と戻れないだろう日々を。
今夜も一人、帰途に着いた神楽はふとそんな事を思った。
部屋の中は暗く冷たかった。
その部屋の雰囲気が今の自分にはひどく相応しく感じる。
居間ではいつものようにマヤーがうずくまっている。
眠ってはいない。
じっと神楽の姿を見つめているだけだ。
榊が出て行ってからマヤーもすっかり元気を失くしてしまった。
数日前はこうではなかった。
帰った部屋は明るく、暖かだった。
安らぎがあった。
私を待っていてくれる愛しい人がいた。
…榊がいた。
眩暈がした。
ふらふらとした足取りで寝室へ向かった。
そのまま倒れ込むようにベッドに横たわった。
そうしていても気だるさは消えない。
胸が苦しくて、食欲もない。
…寒い。
神楽はシーツに顔をうずめた。
まだ微かに榊の香りが残っていた。
目を閉じて彼女を思い出す。
整った顔立ち、スラリとした長身、艶のある黒い髪。
自分を見つめる眼差しは穏やかだった。
かけてくれる言葉は優しかった。
抱きしめる腕には温もりがあった。
重ねた肌は柔らかだった。
彼女を形造るもの、その全てが神楽のものだった。
失った。
「…っ」
たまらなかった。
榊に会いたい。
強く抱きしめて欲しい。
他には何もいらない。
神楽は一人、震える身体をかき抱いていた。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
神楽は自分の名を呼ぶ声に目を開けた。
ベッドに腰掛け、自分を見つめている女性の影が映った。
「…榊?」
榊は無言で微笑み、神楽へ手を差し出した。
その手を取り、素早く抱き寄せた。
…温かい。
神楽の指に力がこもる。
同じ力で抱きかえされた。
身を焦がすほど渇望したこの状況に熱いものがこみ上げてくる。
凍てついていた心が溶け出したみたいに、涙が溢れ出した。
榊は唇を寄せて、その幾筋かを舌で掬いとってくれた。
「榊、ごめん…ごめんなさい…」
感情を抑えることができなかった。
神楽は子供のように泣きじゃくりながら、何度も謝罪の言葉を繰り返した。
不意に榊の指が神楽の顎をとらえ、上を向かされた。
互いの瞳が合わさるとともに口付けを交わした。
久しぶりに味わう榊の口内の甘さが神楽の思考を麻痺させていく。
やがて唇が離れても名残を惜しむかのように銀色の糸がしばらく二人を繋げていた。
露わにされた神楽の肌の上を何度も榊の手がなぞられ、舌が這わされる。
触れられる度に神楽の口から艶のある吐息が漏れた。
「榊」
吐息ともつかぬ掠れた声で、夢中で榊の名を呼び続けた。
少しでも気を抜いたら意識が飛びそうになるのを神楽は懸命に耐える。
僅かでも長く榊を感じていたかった。
必死で榊を求め、彼女も応じるように神楽を激しく愛した。
「神楽」
その声に呼ばれただけで、心が歓喜に震えた。
思った。
自分は榊に溺れているのだと。
もう彼女がいなければ生きていけないのだと。
榊の手が神楽の内腿を撫で始めた。
これから訪れるであろう強烈な快感に神楽はきつく瞼を閉じた。
薄明るい部屋の中で神楽は目を覚ました。
カーテンの隙間からは朝の日差しが漏れていた。
神楽の脳裏に昨夜の記憶がよみがえった。
ハッとして室内を見渡した。
誰もいない。
まさかあれは夢…?
神楽の心を恐怖にも似た不安が覆い出した。
その直後だった。
「…もう起きたのか?」
榊が居間から姿を現した。
「さ、榊…」
ぽかんとなった神楽のすぐ隣に榊は腰掛けた。
「本当は…もっと早く戻りたかったんだけど…。
君がまだ怒ってるんじゃないかと思って…」
そこまで言って榊は照れくさそうに微笑んだ。
「でも…心配してくれてたんだね。
神楽、こんなにやつれて…」
神楽の頬を擦りながら、榊はごめんねと呟いた。
「バカヤロウ…」
神楽の目から再び涙が溢れ出した。
「悪いのは私なんだ。私、榊にひどい事言って、傷つけた…」
榊はかぶりを振って、まだ何かを言おうとする神楽の唇に指を押し当てた。
「もういい。…愛してるよ、神楽」
榊は神楽を優しく抱き締めた。
安心させるように背中を軽く叩いてやった。
「朝食の準備が出来てるから、一緒に食べよう」
「待って」
立ち上がろうとした榊の腕がつかまれた。
振り向いて見た神楽の表情はひどく怯えていた。
「お願い、榊。何処にも行かないで…」
「…神楽?」
「もう…もう二度と私から離れないで…。
榊がいなくなったら私、私………」
か細くも、切なる声だった。
そのあまりに脆く不安定な神楽の姿に榊は強く胸を打たれた。
自分を掴む神楽の手が震えている。
榊はその手をしっかりと握りしめた。
「あぁ、もう絶対に神楽から離れない」
そうはっきりとした口調で神楽に誓ってみせた。
「…うん」
ようやく神楽の顔に笑顔が戻った。
久しぶりに見るその笑顔のまぶしさに、榊は目を細めた。
終わり