「ほんとキモいわ」
夜が深くなってきた美浜邸。
イカ燻を噛みながら大阪が言っている。泡の抜けかけたビールを飲み干して、水原暦はコップを置くと、それで? と聞き返した。
「まあまあ、それで終わりですよ、こよみさん」
被害の張本人たる滝野智は、一向に気にする様子も無く柿ピーをつまんでいる。
「おい、智、柿の種ばっかり食うなよ」
「うるさいなー神楽は。ちゃんと豆も食ってるよ」
「おまえ、あからさまに柿の方が多いじゃねーかよ! 」
いきり立つ神楽を美浜ちよがまあまあとなだめて。
「神楽さんもいってください。これ、ほら。まあまあまあ」
「おっとっとっと」
日本酒の瓶を傾けて神楽のコップに注ぐちよちゃんは、もう小さい女の子ではない。身長も智や大阪と同じくらいの大きさはある。春休みがあけたら、彼女も大学生だ。お酌をするかつてのクラスメイトを感慨深げに見た後、榊もコップを突き出して。
「私も注いで」
「はいはい。わかりました」
こぷこぷと満たされていく、コップの中身。
「で、今は心配はないんだな? 」
「なんのことよ、よみ」
「え? その男だよ」
冗談でも言うような口ぶりで暦が尋ねると、智はがしがしと頭をかいて、ああ、まあね、と答えた。
「あたしもさ、なるべく避けてるつもりだから会わないけど。よっぽどプライド傷つけられたんだろうねー。ちらほらと噂は聞くよ」
「自分のモンと同じくらいちっぽけなプライドがな! 」
吐き捨てる大阪を、智がまあまあとなだめる。まあ確かに鼻はぺちゃんこだけどね、彼。
「まあでもとりあえず表面上は収まってるし、いいんじゃないの? 」
「あー! もう智ちゃんは本当に大人やな」
その大人は誉めていない。確かに聞いていればその男は、かなり人をいらだたせる存在らしい。智はずいぶんと酷い目にもあったようだ。大阪としては智に、友達と飲んでいるときくらい、その持っているであろう怒りを自由にさらけて欲しいのだ。
けれどその当の本人が平気の平座で柿ピーを齧っているのだから、大阪としてはやりきれない。今までずっとそのやりきれなさがたまっていたのだろう。それが噴出したのが、今日の飲み会なのだ。
「仲直りの印、とか言うていきなり現れて、握手しましょうて手え差し出して。むちゃむちゃキモイで、あいつ」
「え? と、智、握手したの? 」
思わず上ずる竹馬の友の声に、智は面白そうな顔を浮かべて、したよ、と答える。
「どうして?! 」
「いやーあ。校舎の中だったしさ、彼としてはここで一波乱あってくれたほうが、いいわけよ。自分に注意が向くから。あいつナルシストだし」
「はあ」
「今までのことは水に流しましょう、なんて言ってさ、左手出されてさ。笑っちゃうよねー。本人あれ、徹底抗戦のつもりだったんだぜ? あははははは」
爆笑する智に神楽が目を丸くして、何で左手で握手するのが徹底抗戦なんだよ、と問う。
「左手で握手すると、利き手は自由でしょ? だからいつでも攻撃できるぞって印なんです。
でもちょっと痛いですよね。リアルでやる人がいるなんて、思いませんでした」
ちよのさらりとした毒舌は、年々強くなっているな、と榊は思う。
それは榊に似てきたからだと智は言うが、榊にはよくわからない。榊は別に毒舌を吐いたりしないから。けれどふとした時に見せるちよの眼差しは、確かに機嫌の悪い時の自分の顔に似てるかな、とも思う。
「でも、よく握手する気になったね。偉い」
ぐいーっとコップの残りを飲み干してから、榊は智に言う。高校の時の彼女なら、自分から進んで大事件にしかねない。それにそんな話を榊にむかってしたことは一度も無い。月に一度は顔を合わせているのに、多分智は自制して榊には何も言わなかったのだ。
「いや、そんな誉めてもらうこともないですよ」
「いいや、偉い」
囁くように誉める榊に、智は頬を赤らめて、いやいや左手でよかったよ、と笑う。
「どうして? 」
「だってあいつのオナニー臭い右手に触わるの、嫌じゃん! 」
「――そら気づかんかったなあ」
智ちゃん、頭ええな、と本気で感心する大阪のグラスももう空っぽだ。彼女らの飲み会のペースは早い。
「女ってさ、やっぱりそう言うことされる傾向があるじゃん。だからあたしは気にしてないよ。なんかさ、舐められちゃうんだよねえ。やっぱり、女は」
「でも、自分は「名誉毀損だ」とか「訴えられて当然! 」とか智ちゃんのこと言うてやー。自分はそれ以上のことしとるやん。鏡に自分の姿を映せいいたくもなるわ! 」
「なんだよ、智。そんなこといわれてるのか? 」
「本当ですか、ともちゃん」
心配そうな神楽とちよちゃんの声。それに答えず智がコップのビールを飲み干すと、エビスの大瓶を持ったちよが真剣な表情のまま、はい、とビールを注いだ。
「ん、まあね」
つがれたビールをごくごくと空けて、智はゲフ、とげっぷをした。
「あたしは何をしたつもりもないけどね。でも一時間めいっぱいつかって、相手をへこましちゃったからさ。まあ他にも、色々あったし」
ごにょごにょと口の中で呟く智。
つん、と酒のにおいの中に、甘い女性のにおいと、鉄っぽい血のにおいが混じっている。夜がさらに深くなった証拠だ。榊はそれとなく立ち上がり、窓を開けて。
「いい女は大変だね」と言った。
「いいおんなぁ? 」
「そう、いい女」
素っ頓狂な声をあげる暦に、この長髪の女は真面目な顔でうなづく。春の空気が、すうっと入ってきた。窓にもたれかかったまま榊は、智はもてるでしょ、と笑った。
「へへー。さすがは榊ちゃん。極上のいい女は、いい女がわかる! それに比べてよみは――」
「なんだよ。言いたいことがあるなら、はっっきり言え! 」
「べーつにぃー」
にやにやと笑う智に、この、と暦が拳を上げる。なんやよみちゃん、素直になんなさい、と大阪がぬるっとした声で言う。
「あたしやったらなー? 智ちゃんのおめこも舐められるよー、て。あははははは」
「……バカ、お前、ピッチ早すぎだぞ」
殆どたった一人でダルマを飲み干しつつある大阪に、目を丸くして神楽が止めると。
「うるさい! こん甲斐性なし!! 悔しかったら酒もってこぉーい! 」
と神楽をポカポカ殴り始める。ずいぶん女性らしくなった神楽も、負けてはいない。
「なんだこの、やるのか? 歩」
「痛い痛い痛いいたい。ヘッドロック禁止! ギブ! ギブアップ!! 」
がっしと頭を掴まれた大阪が、神楽の腕をぺしぺしタップする。この二人は飲み始めると、普段の倍スキンシップが濃くなる。ようやく解かれた頭をふらふらさせていると、榊が大阪に声をかけた。
「ねえ、持ってる? 」
「あ、もっとるよ」
榊が人差し指と薬指を自分の唇に当てて、二三度パタパタさせると、了解した大阪がポシェットを開けた。
「めずらしいな。榊ちゃんが吸いたい言うなんて」
「ん。気分転換にね」
取り出したマルボロメンソールを持って、大阪は榊の側まで行く。カチ、とライターが光って、大阪の煙草に火が移り。
「ん」
「ん」
大阪の煙草の火から、直接榊が自分の煙草に火を移す。
「じゃあ私も」
「よみちゃんも、マルボロする? 」
「いや。私はマイセンあるから」
ちよは煙草の匂いを嫌がるので、喫煙組は窓の側で吸う事が義務付けられている。普段は大阪がもっぱら窓のお世話になっている。暦はその次くらいの常連だ。待ってましたとばかり、マイルドセブンの箱を取り出す。
そしてそんな時、非喫煙組はと言えば。
「大体煙草なんてさ、吸う奴の気がしれないよねー」
「ほんとほんと。ああやってかっこつけて、仲間意識持って、あーやだやだ」
「智ちゃん。わたしにも、お酒注いでください」
「はいはい、まあまあまあまあ」
「おっとっとっと」
聞こえるように嫌味をいいながら、飲みつづけるのであった。ちよが本格的に飲み始めるのも、この辺りからである。でないと酔っ払ってつまみが用意できなくなるからだ。
「あ、そうだ。用意していたピザ、焼いてきますね」
「あ、私が行く。ちよは、もう飲んでていいよ」
大阪が差し出した携帯灰皿に、ぎゅっと吸い掛けの煙草をねじ込んで、榊が言う。榊が美浜ちよを呼び捨てにし始めるのも、酔いが回ってきてからである。
「またか……」
「まただね」
こそこそと言葉を交わすと、智がまたぐるりと半身を返した。暦はどきりとする。智がこちらを向いているからである。そっと智の肩に手をやると、うんしょ、と智が暦の腕の中に滑り込んできた。
一番壁際に智が寝ている。その隣は、ご存知暦だ。それから神楽、大阪と続いて、ちよ、榊と並んで寝ている。それは別に構わないのだが、これは最近避けてきた並び方である。この並びにすると、妙な音が必ず聞こえてくるからである。
「……キスしてるね」
「うん」
「榊かな。ちよちゃんかな」
「さっきの声? 」
「うん」
「榊だろ」
やっぱりか、うん、とうなづいて、暦は自分の手に少し力が篭っているのを感じる。そっと智の頭に鼻を寄せると、智が軽く頭突きしてきた。
「…ってぇ――。なにすんだよ、智! 」
「ここでするのは、嫌だよ! バカかよみは」
あくまでひそひそ声の二人の間で、徐々にキスの音が高くなっていっている。始めは抑えぎみだったのが、徐々に徐々に抑えきれないくらいに。
「咳払い、するか」
「え? 」
「咳払い、してみるか、と言ったんだ」
うらやましいくらいに熱い口付けの音に赤面しながら、暦は智に繰り返す。その提案に顔色一つ変えないで、智。
「では暦先生お願いします」
「え? 私!? 」
「提案者がするもんだろ」
「……わ、わかったよ」
ん、んー。
暦は小さく喉を鳴らしてみる。
反応は。
――は――。は――、ん。ちゅ……。
ふふ。……ですよ。…きさん。
「どどどうしよう。聞こえてないよ」
声が震えた暦に、智は、バカだなあ、と囁いた。
「そんな小さい音じゃ、聞こえるはずないよ」
「だったら智、やってみろよ」
「わかったわかった」
「さり気なくだぞ。あくまで」
「わかってるって。
あー。
エヘンエヘン」
わざとらしい咳払いに、ぴたっと物音が止む。
「ほら、止まった」
「ばっかだろ、お前! 」
懸命に声を殺して、暦がののしる。
「さり気なくって、言っただろ? お前! 」
「いやー。悪い悪い」
えへへ、と欠片も悪気無く言う友に、暦は大きくため息をついた。
榊とちよが、恋愛関係になっている、と言うのは、このメンバーの暗黙の了解である。ちよがアメリカ留学ではなく、半年の世界旅行に切り替えたのは、急いで榊の元に戻ってくるためだ。それは色々な意味で、結果的によかったと暦は思う。
問題は、彼女達二人が、思った以上にオープンだと言うことだ。別に友達にカミングアウトしたわけではない。皆の前ではあくまで友人として振舞って見せている。しかし――。
「いつでも、二人きりになったと思ったら、ちゅっちゅしてるもんなあ……」
「目の毒だな」
今度は二人で一緒にため息をつく。
暦や智、もしくは神楽や大阪が、二人にあえて何も言わないのは、もうそれが日常になってしまっているからだ。
初めて二人がキスしているのを見た時は、流石にびっくりはした。けれどそれで友達関係が損なわれることはなかった。二人は二人の足りないところを補いあっている、ベストパートナーに見えたからだ。
更に智と暦には、二人を気持ち悪がったり出来る立場ではない、と言う事情もある。
智と暦も、立派に出来ているのである。
「でも、こんな中でしはじめちゃうかなあ、普通」
暦の疑問に、しかたないよ、と智。
「だって、ばれてないと思ってるんだもん」
「そりゃそうだ」
「没頭したら、気づかないしね。軽い物音なんか」
そう言ってしばらく黙ってみる。静寂はずっとそこにいる。ほっとして暦は、何で神楽達は気づかないんだろうな、と呟いた。
「大阪はすぐ寝ちゃうからいいとして、神楽も酒入ったら寝るの早いからか――。でも気づかないかな、あれ」
「二人に聞いたことある? 」
「聞けるわけないだろ」
お泊りしたときに、こっそりエッチしてるかなんて!
そう囁く暦の口調は、全く常識知らずなと言わんがばかりだったが、自分達も人のことは言えないのだ。
キスくらいなら、二人だって日常茶飯事なのだから。
頭突きされてつーんとしていた鼻が感覚を取り戻してきたので、暦は大きく息を吸う。
アルコールが分解したアセトアルデヒドの酸い匂いに、女の子の甘いにおいがする。変態だなあ、と暦は思う。男同士はどうなんだろう? やっぱりこんな甘いにおいがするんだろうか?
そっと智の額にキスをする。今度は抵抗しないで、智は一度だけされてやる。そして静けさの中、そっと囁くのだ。
「したよ。あの男と、セックス」
ドキン、とした。今度は今までのとは違った、恐ろしい動悸。どきんどきんと強く脈打って、暦の頭の中を真っ白にしていく。やっぱり、やっぱり、やっぱり! そう思うと、苦しくて息が出来ない。闇になれた目で、怖い顔をして智を見ると、当の本人は満面の笑顔で。
「う・そ」
ドスン。
バスン。
がず!
三回きっちり大きな音がする。
――なに?
誰かの小さな声が聞こえるが、暦の耳には聞こえていない。まだ少し荒い呼吸で智の胸倉を掴んでいる。
おまえは、おまえは、おまえはぁ!!
「でも、ちょっとほっとしたでしょ? 」
痛む顎と頭をさすりながら、智はくすくす笑って答える。Tシャツをくちゃくちゃになるほど掴んでいる暦の目はまだ、真剣である。
「お前なあ。私が本気で話している時に……」
「ばか! 」
今度は智が、こちん、と頭突きをした。それはとても軽くてかわいい攻撃で、暦はようやくその時、掴まれて捲れあがった智のTシャツから、柔らかな乳房が剥き出しになっているのに気づく。そっと手を緩めた。
「なんで心配なんだよ」
「だって、智が、酷い目にあって……」
「そうじゃないだろ、よみの心配は! 」
ふてくされた声の智は、ようしゃしない。何故なら智もよみなんかよりはるかに怒っているからだ。
「あたしがあの男と出来てるんじゃないかって、疑ってたんだろ? 」
ぐ、と言葉に詰まる。
「ばか! 信じろよ! 何であたしがあんな奴! 大体ケツの穴まで見せ合った仲なんだから、あたしのこと信じろよ! 少なくともあんな奴に抱かれたりしないよ! 」
押し殺した智の声。その返答はまた全く異なる場所から聞こえてくる。
アン、と甘い声。
「ふ……。だめだよぉ、そんな――」
思いもよらないほど大きな声だったので、また智と暦の動きが止まった。
嘘、と驚きの声を上げた大阪は、声を潜めて、それほんとなん? と囁いた。
「うるさいですよー」
寝ぼけた声がどこかから聞こえる。それは寝ぼけたちよちゃんの声だ。それを聞いて更に声を潜めて大阪が。
「そいやったら、最悪やん、あいつ」
「もう充分最悪だよ」
ふう、とため息をついて、智が囁く。
「まあほら、男の誇りを傷つけられちゃったんだよ。あたしのせいで大学これなくなった、なんて言ってるらしいじゃん? あれきっとあたしが付き合うの、断ったせい」
「死んだ方がいいな」
暦が言うと、いいんだよほっとけば、とこれまた智は大人の反応。
「だってあたしはさ、みんながいるし。それに小説書いたり、詩を書いたりとか楽しいし。大学入って本腰を入れ始めたことが、楽しくて仕方ない。だから、いいの。そんな怒りの力も、物を書くエネルギーになるしね」
ちょこちょこと智がそう言うことをしているのは、暦は知っている。
けれど積極的に読ませてくれと言った事は無い。その熱心な読者は、むしろ大阪である。榊は智と会って、児童館に絵本を朗読して行ったりしているから、読んでいるかもしれない。どうなのかわからない。
でも、それでいい、とみんな知っている。友達だからみんな友達のものを、諸手を上げて賛美する必要なんてないのだから。むしろそうでなくてはならない、と思い込むほうが、寂しい人なのかもしれない。気の毒だな、と思う。
まあ自分は誰からも注目されて当然って人は、ちょっと困るよねえ、と苦笑気味に智が言う。
「……実はさ、そいつに、お前はレズだってののしられたんだよね」
「何で? 」
「いや、今男に興味ないって断ったら」
「何言うとんの! 」
と大阪が呆れた声を出す。
「あんな男、男に興味があってもお断りです! つーか、自分に興味の無い女はみんなビアンなんか? とことんアホなヘテロやな!! そしたらこん世界の女はみんなレズや! 少なくとも、この部屋の中はレズビアンだらけや! 」
「あのさ」
怒りのあまり、声が大きくなってきた大阪に、智がニヤニヤして。
「キモイよね」
「何が? 」
「いや、本当に、この部屋の人が、みんなレズだったら」
ちゅ。
とても近いところで、キスの音がした。もちろん、水原と滝野のものではない。と言うより、もうそんなことは水原にとってどうでもいいことだ。今はただ自分の目の前にいる彼女の身体を味わう方が先だ。
「偶然、寝相が悪くてこっちに転げてきたんじゃないか? 」
「どうだろうね」
何食わぬ顔、何食わぬ声で水原と滝野は会話をしている。それなのに暦の手は、もうTシャツをめくり上げて、じかに滝野の胸を犯し始めている。智の腰が、くなくなと動き始めているのが分かる。そのくせ彼女の口調はまるで乱れていないのだった。
「もしかしてさ」
「何? 」
「ずっと聞かれてたりして」
「何を? 」
「さっきからの、話」
げ、と暦の手が止まった。いじわるそうな滝野の笑い。
「気になる? 」
「ま、まあね」
そう言って暦はそっと手を退いた。それはそうだろう。智は結構きわどいことを言っていた。
みんなに二人の関係を知られるのはいいのだ。別にそんなことでこの友人関係がおじゃんになることはあるまい。皆も受け入れてくれることは分かっている。けれどキスしたり喘いだりしているのが、聞かれているのは困る。
恥ずかしいったら、ありゃしない。
本当は何かのきっかけで、知って欲しいのだ。自分達の関係を。むしろそのきっかけが欲しいくらいなのだ。
水原は思う。
――もしかすると、榊達もそれを期待しているのかもしれない。
何してんだよ、と声をかけてくれれば、実はですね、といえるかもしれない。そんな期待がどこかにあるのではないか? けれどそれは中々踏み出せない、一つの壁だ。
「そんなばかな」
そう言って、水原は布団を頭からかぶってしまう。それはずいぶん虫のいい考えだ。何もかもぶちまけてしまいたい気持ちと、隠しとおしたい気持ちで頭がぐしゃくしゃになる。
だから布団がばっと暴かれて、智が覆い被さってきたときは、一瞬拒んだ。
「ばか」
身を強張らせた水原に、熱く濡れた低い声で滝野が囁いた。
「さんざ人に熱を与えといて、しらんぷりかよ」
そこから押さえつけるようなキス。爆発するようなキス。暦はその熱を一生懸命受け取る。唇で、舌で、口蓋で顎で。ちゅ、ちゅ、と激しい音と共に、ぐるりと身体を反転させる。今度は覆い被さるのは暦の方だ。
「しないんじゃ……。なかったの? 」
「だって、あんなことされて、がまんなんて」
智のTシャツをめくり上げて、そこに唇を押し付ける。すぐに目指す突起は見つかった。かり、と甘噛みする。
「あはあ! 」
大きな智の声に、暦が唇で蓋をする。じゅくじゅくと、涎がこぼれるような、熱いキス。まだ身体の奥に残っている酔いが、燃え上がった性欲を盛んに掻き立てる。
「ともは、こえでちゃうもんね」
「だからやめてっていったのに」
「キスじゃ、ものたりないんだ」
「うん」
「かわいいよ。とものこえ」
「すき」
「え? 」
「よみ、た・い・す・き」
盛んにキスを繰り返していた暦の動きが止まる。もうどれくらいこんなキスをしているのか。智の身体に押し当てていた腰の芯が、少しこすれるだけでひくひくしてしまう。クリトリスが勃起しているせいだ。
掠れた智の声に、泣きそうな声で、暦が。
「私だって、たいすきだよ。智」
闇の中で、智が笑った。よくはみえないけれど、涙が出ているようで、それがまた愛しくて、暦は再びキスに没頭していく。
好き。
好き。
大好き。
聞いている人が恥ずかしくなるような、甘いやり取り。そんな時誰かに呼ばれたとしても、けっして気づかないものだ。まして他の誰かの甘い吐息が混じって聞こえたら、なおのこと。その異常な気配が、淫らな心を燃え上がらせる。
「ああ、あゆ――。あゆ……む、ぅっ!! 」
もちろん、こんな声も聞こえない。
ただただ。
顎まで舐めまわし、さんざ甘い声をだす智が、愛しい。
首筋に音を立ててキスする智が、とてもとても愛しい。
だから、は、と暦が顔を上げたのは、音がしたからではない。そのまぶしさに思わず目を細めて、光の方向を眺めるためだ。
横たわった半裸の神楽が、色っぽい涙目でこちらを見てから、慌てて胸元に手をやった。大阪はぽかんと立っている誰かさんを見ている。
立っているのは、ここの部屋の主である。美浜ちよは冷淡とも思える視線を向けて、わざとらしく。
「あー。
エヘンエヘン」
と言った。
「そんじゃ、飲みなおしますか」
それに対して智は自分の胸元を隠しもせず、にんまりして言う。真っ赤になった暦は、あああああああのな、とどもった。それをぐっと抱きしめて、智がキスする。
優しい恋人のキス。
ばれてしまった驚きと、混乱と、なんだか分からない感情で、暦の目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。その背中をよしよし、と智の手が撫でてもう一度。
「そんじゃ飲みなおしますか」
「飲もう」
榊がどっかりあぐらをかいて、側に座った。着衣を直した大阪が、コップを取りに下の台所に向かう。神楽は急いでついて行く。
暦の涙は止まない。でも、榊があんまり真剣な顔をしているので、笑い出しそうな感覚に、横隔膜がひくひくする。
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