95 名前:『全くこの頃の日常は!』《1》[sage] :2006/03/28(火) 15:24:34 ID:WH+Heq4e

「ほんとキモいわ」
 夜が深くなってきた美浜邸。
 イカ燻を噛みながら大阪が言っている。泡の抜けかけたビールを飲み干して、水原暦はコップを置くと、それで? と聞き返した。
「まあまあ、それで終わりですよ、こよみさん」
 被害の張本人たる滝野智は、一向に気にする様子も無く柿ピーをつまんでいる。
「おい、智、柿の種ばっかり食うなよ」
「うるさいなー神楽は。ちゃんと豆も食ってるよ」
「おまえ、あからさまに柿の方が多いじゃねーかよ! 」
 いきり立つ神楽を美浜ちよがまあまあとなだめて。
「神楽さんもいってください。これ、ほら。まあまあまあ」
「おっとっとっと」
 日本酒の瓶を傾けて神楽のコップに注ぐちよちゃんは、もう小さい女の子ではない。身長も智や大阪と同じくらいの大きさはある。春休みがあけたら、彼女も大学生だ。お酌をするかつてのクラスメイトを感慨深げに見た後、榊もコップを突き出して。
「私も注いで」
「はいはい。わかりました」
 こぷこぷと満たされていく、コップの中身。



 

96 名前:『全くこの頃の日常は!』《2》[sage] :2006/03/28(火) 15:27:24 ID:WH+Heq4e

 美浜家は、高校の時から皆の集る憩いの場だ。考えてみればお互いの付き合いももう五年になる。ちよちゃんが半年ほどの世界旅行の後日本に戻ってきてから、何となくまたみんな集るようになっている。
そんなわけで、今日は飲み会なのだ。各々で買ってきたつまみやら酒やらを持ち寄って、何をしゃべるでもなくおだべりする飲み会。もちろんお泊りで。
皆もうとっくにパジャマに着替えている。着替えていないのはパジャマを持ってくるのがメンドクサイという智一人である。Tシャツにホットパンツ。まだ少し肌寒い春だから、その上に大きなコートを着てやってきたのだ。
「それにしても、災難だね」
 榊がぐいぐいとコップを半分くらい開けて言うと、周囲から、あはは、と笑い声が漏れる。
「ほんと、失笑やわ」
 大阪はダルマに手を伸ばして、グラスにごぷごぷ注ぐと口をつけ、マズ、と舌を出した。
「お前ピッチ早すぎじゃねえか? 」
「大丈夫よー」
 神楽のさりげない言葉に、あはは、と大阪が笑う。
「あたしは神楽ちゃんがいるから、大丈夫ー」
「こ、こら! 」
 肩にしなだれかかってきた大阪に、神楽が赤面する。けれどその目は本人の言う通り、まだまだ大丈夫なのだ。
 ――よく飲むな。
 一緒に飲むたびに、いつも神楽は同じ感想を持つ。
 ――ウワバミか、こいつは。
 ただ今日は、大阪の腹の居所が少し悪いらしい。それを察して神楽はそっと大阪の腰に手を回して、よしよし、とさすってやる。このメンバーの中で、高校時代から姿形がぐっと変わったのは、美浜ちよと神楽の二人だろう。
 昔プールの塩素でパサパサしていた髪は、殆どプールに入らなくなった今は、腰のあるウェーブになっていて、肩に垂れている。スカートもすすんで履くようになった。大阪と一緒に選んでいるのだそうだ。よく似合っている。


97 名前:『全くこの頃の日常は!』《3》[sage] :2006/03/28(火) 15:29:18 ID:WH+Heq4e

「で、今は心配はないんだな? 」
「なんのことよ、よみ」
「え? その男だよ」
 冗談でも言うような口ぶりで暦が尋ねると、智はがしがしと頭をかいて、ああ、まあね、と答えた。
「あたしもさ、なるべく避けてるつもりだから会わないけど。よっぽどプライド傷つけられたんだろうねー。ちらほらと噂は聞くよ」
「自分のモンと同じくらいちっぽけなプライドがな! 」
 吐き捨てる大阪を、智がまあまあとなだめる。まあ確かに鼻はぺちゃんこだけどね、彼。
「まあでもとりあえず表面上は収まってるし、いいんじゃないの? 」
「あー! もう智ちゃんは本当に大人やな」
 その大人は誉めていない。確かに聞いていればその男は、かなり人をいらだたせる存在らしい。智はずいぶんと酷い目にもあったようだ。大阪としては智に、友達と飲んでいるときくらい、その持っているであろう怒りを自由にさらけて欲しいのだ。
 けれどその当の本人が平気の平座で柿ピーを齧っているのだから、大阪としてはやりきれない。今までずっとそのやりきれなさがたまっていたのだろう。それが噴出したのが、今日の飲み会なのだ。
「仲直りの印、とか言うていきなり現れて、握手しましょうて手え差し出して。むちゃむちゃキモイで、あいつ」
「え? と、智、握手したの? 」
 思わず上ずる竹馬の友の声に、智は面白そうな顔を浮かべて、したよ、と答える。
「どうして?! 」
「いやーあ。校舎の中だったしさ、彼としてはここで一波乱あってくれたほうが、いいわけよ。自分に注意が向くから。あいつナルシストだし」
「はあ」
「今までのことは水に流しましょう、なんて言ってさ、左手出されてさ。笑っちゃうよねー。本人あれ、徹底抗戦のつもりだったんだぜ? あははははは」
 爆笑する智に神楽が目を丸くして、何で左手で握手するのが徹底抗戦なんだよ、と問う。
「左手で握手すると、利き手は自由でしょ? だからいつでも攻撃できるぞって印なんです。
でもちょっと痛いですよね。リアルでやる人がいるなんて、思いませんでした」
 ちよのさらりとした毒舌は、年々強くなっているな、と榊は思う。
 それは榊に似てきたからだと智は言うが、榊にはよくわからない。榊は別に毒舌を吐いたりしないから。けれどふとした時に見せるちよの眼差しは、確かに機嫌の悪い時の自分の顔に似てるかな、とも思う。
「でも、よく握手する気になったね。偉い」
 ぐいーっとコップの残りを飲み干してから、榊は智に言う。高校の時の彼女なら、自分から進んで大事件にしかねない。それにそんな話を榊にむかってしたことは一度も無い。月に一度は顔を合わせているのに、多分智は自制して榊には何も言わなかったのだ。
「いや、そんな誉めてもらうこともないですよ」
「いいや、偉い」
 囁くように誉める榊に、智は頬を赤らめて、いやいや左手でよかったよ、と笑う。
「どうして? 」
「だってあいつのオナニー臭い右手に触わるの、嫌じゃん! 」
「――そら気づかんかったなあ」
 智ちゃん、頭ええな、と本気で感心する大阪のグラスももう空っぽだ。彼女らの飲み会のペースは早い。


 

98 名前:『全くこの頃の日常は!』《4》[sage] :2006/03/28(火) 15:30:30 ID:WH+Heq4e


 事の起こりは、彼が大学の講座で恥をかかされたことが原因なのだと言う。文章創作の講座で、彼の発表の細かなミスを智が突き詰めると、口汚い言葉でののしり、教室を後にしてしまったのだそうな。そこから始まったしつようないやがらせ。
「あんの、目の下にベソーっと隈つけた固太り。ほんま腹立つ! 」
 普段はおっとりしている大阪が怒るのも、当然と言えよう。
「自分はもう殆どドロップアウトしてる癖に、わざわざ大学に来るんは何でかと思う? 智ちゃんのケータイの番号男子トイレに書いたり、講座の悪口言いふらしたりするためやで? 智ちゃんの書いたもんに、言いがかりみたいなケチつけて! 」
「それ、通報できないんですか? 」
 ちよの言葉に、智がのんびりした口調で、証拠が無いしねえ、と答えた。
「調べてみたけど、現行犯でないと、どうも無理っぽい」
「だからお前携帯電話の番号変えたのか! 」
 神楽の言葉に、うんまあね、とこれまた生返事の智。そこに暦の声がかぶさった。
「いい男なのか? そいつ? 」
 智の指が、柿の種に伸びた。神楽はコップの日本酒に口をつける。榊はペットボトルの水を注いで一気に煽った。大阪はぽかんと暦を見ている。ちょっとした静寂。そんな中ちよが戸惑う声で、言った。
「よみさん、何を聞いてたんですか? 」
「――え? 」
「そんな頭のおかしい人、いい男のはずが無いじゃないですか」
 ま、まあ、そりゃそうだけど、ともごもごと口の中で言う暦に、智が囃し立てる。
「全く、こよみさんは男が欲しくて欲しくてしょーがないんでしょうなあ」
「なんだと、このやろう」
「へへーん♪ 図星? 図星なんだー! 」
「何言ってんだ! 人がせっかく心配しているのに!! 」
 いきり立つ暦に、神楽がぽつりと。
「心配しているのは分かるが、なんでそれがいい男かどうかの質問になるのかわかんね」
「いややなあ、神楽ちゃん? たんなる嫉妬よ。嫉妬」
 何だ、よみの嫉妬かア、と大阪と笑いあう神楽を、暦が睨みつける。
「誰が嫉妬だ、誰が」
「いや、でも嫉妬もあるかもしれない」
 話に割り込んできた榊に、嫉妬なんかしてない! と暦が食いつく。
「なんで私が嫉妬しないといかんのだ! 」
「いや、そう言うことじゃなくて」
 どうどう、と榊が押し留める手は堂に入っている。馬や牛をなだめる手と同じだな、とちよはこっそり思う。榊の、獣医学部の面目躍如だ。
「その人が、嫉妬したんじゃないかな」
「こいつにか? 」
 智のことを顎で示す暦に、榊が、そう、と答えた。
「智は話の中心になりやすいし、誰でも友達になれそうな雰囲気があるから、その人は仲間に入りたかっただけじゃないのかな」
「そんなきれいなもんちゃう。あれは犯したいだけよ。書くもんも書けんくせに偉そうに! 」
 今度はまあまあ、と大阪を押し留めるのは、智の方だ。
「なんだか聞いた話だと、色んな創作サークルに顔出しては「我が盟友」だの「我が朋友」とか呼びかけてるらしいじゃん。あながち外れでもないかも。寂しいのも、あるかもよ」
「でも相手にされてないっしょ? 」
 神楽がにやにやすると、大阪がうなづいて。
「だって、キモイもん」
 ぷ、と榊が吹き出した。まあキモイよな。キモイですよねえ。本人が側にいないのをいいことに、しばしその男の容姿性格で盛り上がる。そこを再び智が、まあまあ諸君、と割って入った。


99 名前:『全くこの頃の日常は!』《5》[sage] :2006/03/28(火) 15:32:01 ID:WH+Heq4e

「女ってさ、やっぱりそう言うことされる傾向があるじゃん。だからあたしは気にしてないよ。なんかさ、舐められちゃうんだよねえ。やっぱり、女は」
「でも、自分は「名誉毀損だ」とか「訴えられて当然! 」とか智ちゃんのこと言うてやー。自分はそれ以上のことしとるやん。鏡に自分の姿を映せいいたくもなるわ! 」
「なんだよ、智。そんなこといわれてるのか? 」
「本当ですか、ともちゃん」
 心配そうな神楽とちよちゃんの声。それに答えず智がコップのビールを飲み干すと、エビスの大瓶を持ったちよが真剣な表情のまま、はい、とビールを注いだ。
「ん、まあね」
 つがれたビールをごくごくと空けて、智はゲフ、とげっぷをした。
「あたしは何をしたつもりもないけどね。でも一時間めいっぱいつかって、相手をへこましちゃったからさ。まあ他にも、色々あったし」
 ごにょごにょと口の中で呟く智。
つん、と酒のにおいの中に、甘い女性のにおいと、鉄っぽい血のにおいが混じっている。夜がさらに深くなった証拠だ。榊はそれとなく立ち上がり、窓を開けて。
「いい女は大変だね」と言った。
「いいおんなぁ? 」
「そう、いい女」
 素っ頓狂な声をあげる暦に、この長髪の女は真面目な顔でうなづく。春の空気が、すうっと入ってきた。窓にもたれかかったまま榊は、智はもてるでしょ、と笑った。
「へへー。さすがは榊ちゃん。極上のいい女は、いい女がわかる! それに比べてよみは――」
「なんだよ。言いたいことがあるなら、はっっきり言え! 」
「べーつにぃー」
 にやにやと笑う智に、この、と暦が拳を上げる。なんやよみちゃん、素直になんなさい、と大阪がぬるっとした声で言う。
「あたしやったらなー? 智ちゃんのおめこも舐められるよー、て。あははははは」
「……バカ、お前、ピッチ早すぎだぞ」
 殆どたった一人でダルマを飲み干しつつある大阪に、目を丸くして神楽が止めると。
「うるさい! こん甲斐性なし!! 悔しかったら酒もってこぉーい! 」
 と神楽をポカポカ殴り始める。ずいぶん女性らしくなった神楽も、負けてはいない。
「なんだこの、やるのか? 歩」
「痛い痛い痛いいたい。ヘッドロック禁止! ギブ! ギブアップ!! 」
 がっしと頭を掴まれた大阪が、神楽の腕をぺしぺしタップする。この二人は飲み始めると、普段の倍スキンシップが濃くなる。ようやく解かれた頭をふらふらさせていると、榊が大阪に声をかけた。


 

100 名前:『全くこの頃の日常は!』《6》[sage] :2006/03/28(火) 15:32:51 ID:WH+Heq4e

「ねえ、持ってる? 」
「あ、もっとるよ」
 榊が人差し指と薬指を自分の唇に当てて、二三度パタパタさせると、了解した大阪がポシェットを開けた。
「めずらしいな。榊ちゃんが吸いたい言うなんて」
「ん。気分転換にね」
 取り出したマルボロメンソールを持って、大阪は榊の側まで行く。カチ、とライターが光って、大阪の煙草に火が移り。
「ん」
「ん」
 大阪の煙草の火から、直接榊が自分の煙草に火を移す。
「じゃあ私も」
「よみちゃんも、マルボロする? 」
「いや。私はマイセンあるから」
 ちよは煙草の匂いを嫌がるので、喫煙組は窓の側で吸う事が義務付けられている。普段は大阪がもっぱら窓のお世話になっている。暦はその次くらいの常連だ。待ってましたとばかり、マイルドセブンの箱を取り出す。
 そしてそんな時、非喫煙組はと言えば。
「大体煙草なんてさ、吸う奴の気がしれないよねー」
「ほんとほんと。ああやってかっこつけて、仲間意識持って、あーやだやだ」
「智ちゃん。わたしにも、お酒注いでください」
「はいはい、まあまあまあまあ」
「おっとっとっと」
 聞こえるように嫌味をいいながら、飲みつづけるのであった。ちよが本格的に飲み始めるのも、この辺りからである。でないと酔っ払ってつまみが用意できなくなるからだ。
「あ、そうだ。用意していたピザ、焼いてきますね」
「あ、私が行く。ちよは、もう飲んでていいよ」
 大阪が差し出した携帯灰皿に、ぎゅっと吸い掛けの煙草をねじ込んで、榊が言う。榊が美浜ちよを呼び捨てにし始めるのも、酔いが回ってきてからである。



 

101 名前:『全くこの頃の日常は!』《7》[sage] :2006/03/28(火) 15:33:48 ID:WH+Heq4e


 ――で、どうなんだ、とも。
 ――なんだよ、よみ。
 あれから数時間経って――。
 すっかり片付け終わって、皆が一斉に布団にもぐりこんだ後のことである。
「どうって、ほら、あの男の――」
「そんなに欲しいなら、あげるよ」
「い・ら・な・い」
 部屋の中は真っ暗である。厚いカーテンに閉ざされて完全に消灯状態。高校を卒業して辺りから、真っ暗にして寝るようになったのだ。理由は知っている。分かりきっている。しかしそれを口にしないのが、友達と言うものではなかろうか。
 とにかく真っ暗な中では、声が響いて聞こえる。従って必然的にささやき声になるわけだが、今日はとても注意して暦は囁いていた。
「だって、心配だろ、普通」
「あー、心配ない心配ない」
 ぐるり、と暦に背を向けて、智が布団に顔を埋める。
「って言うか、気にしたくない。あんまり話したい話でもないし」
 もそもそ、と布団が動く音が聞こえる。視覚の役に立たない世界だから、聴覚が敏感になるのだ。そのもそもそは、いったん止んで、再びそろそろと布に何かが入り込んでいく音が聞こえた。
「……怒った? 」
「別に! 」
 智は背中に、柔らかい何かを感じている。それは暦の手のひらだ。見なくても分かる。
「ただどうして、よみがそんなにその男を気にするのかわからん」
「……だって、それは――」
 何か酷いことをされたんじゃないかって、思うから、と続けようとして、声が消えた。それを考えると頭を殴られたような感じがする。胸がぐっと押し潰されるような感覚。
 それなのに、智は平気な顔で。
「大丈夫、入れても気持ちいいおちんちんじゃないよ、きっと」なんて言うのだ!
「とも! 」
 思わず大きくなりそうな声に、もう一つの声が、かぶさった。

「……あ、ん」

 それからまた、布団が、ず、と動く音。
 それっきり静まりかえった部屋。


102 名前:『全くこの頃の日常は!』《8》[sage] :2006/03/28(火) 15:34:45 ID:WH+Heq4e

「またか……」
「まただね」
 こそこそと言葉を交わすと、智がまたぐるりと半身を返した。暦はどきりとする。智がこちらを向いているからである。そっと智の肩に手をやると、うんしょ、と智が暦の腕の中に滑り込んできた。
 一番壁際に智が寝ている。その隣は、ご存知暦だ。それから神楽、大阪と続いて、ちよ、榊と並んで寝ている。それは別に構わないのだが、これは最近避けてきた並び方である。この並びにすると、妙な音が必ず聞こえてくるからである。

「……キスしてるね」
「うん」
「榊かな。ちよちゃんかな」
「さっきの声? 」
「うん」
「榊だろ」

 やっぱりか、うん、とうなづいて、暦は自分の手に少し力が篭っているのを感じる。そっと智の頭に鼻を寄せると、智が軽く頭突きしてきた。
「…ってぇ――。なにすんだよ、智! 」
「ここでするのは、嫌だよ! バカかよみは」
 あくまでひそひそ声の二人の間で、徐々にキスの音が高くなっていっている。始めは抑えぎみだったのが、徐々に徐々に抑えきれないくらいに。
「咳払い、するか」
「え? 」
「咳払い、してみるか、と言ったんだ」
 うらやましいくらいに熱い口付けの音に赤面しながら、暦は智に繰り返す。その提案に顔色一つ変えないで、智。
「では暦先生お願いします」
「え? 私!? 」
「提案者がするもんだろ」
「……わ、わかったよ」

 ん、んー。

 暦は小さく喉を鳴らしてみる。
 反応は。

 ――は――。は――、ん。ちゅ……。
 ふふ。……ですよ。…きさん。

「どどどうしよう。聞こえてないよ」
 声が震えた暦に、智は、バカだなあ、と囁いた。
「そんな小さい音じゃ、聞こえるはずないよ」
「だったら智、やってみろよ」
「わかったわかった」
「さり気なくだぞ。あくまで」
「わかってるって。
 あー。

 エヘンエヘン」

 わざとらしい咳払いに、ぴたっと物音が止む。


 

103 名前:『全くこの頃の日常は!』《9》[sage] :2006/03/28(火) 15:35:20 ID:WH+Heq4e

「ほら、止まった」
「ばっかだろ、お前! 」
 懸命に声を殺して、暦がののしる。
「さり気なくって、言っただろ? お前! 」
「いやー。悪い悪い」
 えへへ、と欠片も悪気無く言う友に、暦は大きくため息をついた。


 榊とちよが、恋愛関係になっている、と言うのは、このメンバーの暗黙の了解である。ちよがアメリカ留学ではなく、半年の世界旅行に切り替えたのは、急いで榊の元に戻ってくるためだ。それは色々な意味で、結果的によかったと暦は思う。
 問題は、彼女達二人が、思った以上にオープンだと言うことだ。別に友達にカミングアウトしたわけではない。皆の前ではあくまで友人として振舞って見せている。しかし――。
「いつでも、二人きりになったと思ったら、ちゅっちゅしてるもんなあ……」
「目の毒だな」
 今度は二人で一緒にため息をつく。
 暦や智、もしくは神楽や大阪が、二人にあえて何も言わないのは、もうそれが日常になってしまっているからだ。
 初めて二人がキスしているのを見た時は、流石にびっくりはした。けれどそれで友達関係が損なわれることはなかった。二人は二人の足りないところを補いあっている、ベストパートナーに見えたからだ。
 更に智と暦には、二人を気持ち悪がったり出来る立場ではない、と言う事情もある。
 智と暦も、立派に出来ているのである。



 

104 名前:『全くこの頃の日常は!』《10》[sage] :2006/03/28(火) 15:36:07 ID:WH+Heq4e

「でも、こんな中でしはじめちゃうかなあ、普通」
 暦の疑問に、しかたないよ、と智。
「だって、ばれてないと思ってるんだもん」
「そりゃそうだ」
「没頭したら、気づかないしね。軽い物音なんか」
 そう言ってしばらく黙ってみる。静寂はずっとそこにいる。ほっとして暦は、何で神楽達は気づかないんだろうな、と呟いた。
「大阪はすぐ寝ちゃうからいいとして、神楽も酒入ったら寝るの早いからか――。でも気づかないかな、あれ」
「二人に聞いたことある? 」
「聞けるわけないだろ」
 お泊りしたときに、こっそりエッチしてるかなんて!
 そう囁く暦の口調は、全く常識知らずなと言わんがばかりだったが、自分達も人のことは言えないのだ。
 キスくらいなら、二人だって日常茶飯事なのだから。
 頭突きされてつーんとしていた鼻が感覚を取り戻してきたので、暦は大きく息を吸う。
 アルコールが分解したアセトアルデヒドの酸い匂いに、女の子の甘いにおいがする。変態だなあ、と暦は思う。男同士はどうなんだろう? やっぱりこんな甘いにおいがするんだろうか?
 そっと智の額にキスをする。今度は抵抗しないで、智は一度だけされてやる。そして静けさの中、そっと囁くのだ。
「したよ。あの男と、セックス」

 ドキン、とした。今度は今までのとは違った、恐ろしい動悸。どきんどきんと強く脈打って、暦の頭の中を真っ白にしていく。やっぱり、やっぱり、やっぱり! そう思うと、苦しくて息が出来ない。闇になれた目で、怖い顔をして智を見ると、当の本人は満面の笑顔で。

「う・そ」



 

105 名前:『全くこの頃の日常は!』《11》[sage] :2006/03/28(火) 15:36:50 ID:WH+Heq4e

 ドスン。
 バスン。
 がず!

 三回きっちり大きな音がする。
 ――なに?
 誰かの小さな声が聞こえるが、暦の耳には聞こえていない。まだ少し荒い呼吸で智の胸倉を掴んでいる。
 おまえは、おまえは、おまえはぁ!!
「でも、ちょっとほっとしたでしょ? 」
 痛む顎と頭をさすりながら、智はくすくす笑って答える。Tシャツをくちゃくちゃになるほど掴んでいる暦の目はまだ、真剣である。
「お前なあ。私が本気で話している時に……」
「ばか! 」
 今度は智が、こちん、と頭突きをした。それはとても軽くてかわいい攻撃で、暦はようやくその時、掴まれて捲れあがった智のTシャツから、柔らかな乳房が剥き出しになっているのに気づく。そっと手を緩めた。
「なんで心配なんだよ」
「だって、智が、酷い目にあって……」
「そうじゃないだろ、よみの心配は! 」
 ふてくされた声の智は、ようしゃしない。何故なら智もよみなんかよりはるかに怒っているからだ。
「あたしがあの男と出来てるんじゃないかって、疑ってたんだろ? 」
 ぐ、と言葉に詰まる。
「ばか! 信じろよ! 何であたしがあんな奴! 大体ケツの穴まで見せ合った仲なんだから、あたしのこと信じろよ! 少なくともあんな奴に抱かれたりしないよ! 」
 押し殺した智の声。その返答はまた全く異なる場所から聞こえてくる。
 アン、と甘い声。

「ふ……。だめだよぉ、そんな――」

 思いもよらないほど大きな声だったので、また智と暦の動きが止まった。


 

106 名前:『全くこの頃の日常は!』《12》[sage] :2006/03/28(火) 15:37:37 ID:WH+Heq4e


「今の誰? 」
「わかんない――」
「ちよちゃんかな? 」
「確かにちよちゃん少し声変わりしたけど、あんな声じゃないよ」
「じゃあ榊? 」
「……かも」
 時折そんな声が聞こえることもある。今まではそう言うグレイゾーンの声は、全てあの二人の声だと認識していたのだが、今回の声はまるで感じが違う。
「……? 」
「……? 」
 せわしない息は聞こえるけれども、それも何かにふさがれて、再び部屋が静かになる。こう言うのは心臓に悪い。自分の中の何かが高ぶって、どきどきする。股間から胸元まで、きん、と張って困ってしまう。
「と、とにかく、だ」
 暦がこみ上げる唾をごくりと飲み込んで、智に言う。
「智は、そいつと肉体関係なんて、ないんだな? 」
「しつこい」
「なんで?! 」
「なんでって。キモイから」
 智の口から何気なくその言葉が出てきて、暦の心がすうっと軽くなる。そこにあるのは、嫌悪すらない、全く無関心の声だったから。淡々と事実を読み上げる音。そしてそのまま隠していた事実も告げる。
「まあ告白はされたけど」
「え? 」
「ああ、なんか、つきあってくれって言われて断ったけど」
「嘘!? 」
 暦がびくっとする。それは全く関係ないところから聞こえた声だったから。首を傾けて振り返り、尋ねる。
「お、おおさか? 」


107 名前:『全くこの頃の日常は!』《13》[sage] :2006/03/28(火) 15:38:12 ID:WH+Heq4e

嘘、と驚きの声を上げた大阪は、声を潜めて、それほんとなん? と囁いた。
「うるさいですよー」
 寝ぼけた声がどこかから聞こえる。それは寝ぼけたちよちゃんの声だ。それを聞いて更に声を潜めて大阪が。
「そいやったら、最悪やん、あいつ」
「もう充分最悪だよ」
 ふう、とため息をついて、智が囁く。
「まあほら、男の誇りを傷つけられちゃったんだよ。あたしのせいで大学これなくなった、なんて言ってるらしいじゃん? あれきっとあたしが付き合うの、断ったせい」
「死んだ方がいいな」
 暦が言うと、いいんだよほっとけば、とこれまた智は大人の反応。
「だってあたしはさ、みんながいるし。それに小説書いたり、詩を書いたりとか楽しいし。大学入って本腰を入れ始めたことが、楽しくて仕方ない。だから、いいの。そんな怒りの力も、物を書くエネルギーになるしね」
 ちょこちょこと智がそう言うことをしているのは、暦は知っている。
 けれど積極的に読ませてくれと言った事は無い。その熱心な読者は、むしろ大阪である。榊は智と会って、児童館に絵本を朗読して行ったりしているから、読んでいるかもしれない。どうなのかわからない。
 でも、それでいい、とみんな知っている。友達だからみんな友達のものを、諸手を上げて賛美する必要なんてないのだから。むしろそうでなくてはならない、と思い込むほうが、寂しい人なのかもしれない。気の毒だな、と思う。
 まあ自分は誰からも注目されて当然って人は、ちょっと困るよねえ、と苦笑気味に智が言う。
「……実はさ、そいつに、お前はレズだってののしられたんだよね」
「何で? 」
「いや、今男に興味ないって断ったら」
「何言うとんの! 」
 と大阪が呆れた声を出す。
「あんな男、男に興味があってもお断りです! つーか、自分に興味の無い女はみんなビアンなんか? とことんアホなヘテロやな!! そしたらこん世界の女はみんなレズや! 少なくとも、この部屋の中はレズビアンだらけや! 」
「あのさ」
 怒りのあまり、声が大きくなってきた大阪に、智がニヤニヤして。
「キモイよね」
「何が? 」
「いや、本当に、この部屋の人が、みんなレズだったら」


 

108 名前:『全くこの頃の日常は!』《14》[sage] :2006/03/28(火) 15:38:58 ID:WH+Heq4e

 部屋が、しん、となった。
 そのきわどいジョークに、暦は、あ、当たり前だろ、と答える。
「そりゃキモイよ」
「えーと、ともちゃん。確かにキモイけど、あたしはなんて返したらええんやろか」
 慌てた口調の暦に対して、大阪の声は棒読みに近い。その二人の反応に、智はあはは、と笑った。
「もういいじゃない。この話は。寝よう、もう」


 そうしてまた静寂が訪れている。
 誰か起きているだろうか、と暦は思う。思いながら、そっと智の手を握ってみる。握り返す、手のひら。
「ここでは、しないよ」
「わかってるよ」
 智に言われて当たり前のように言葉を返して、けれど諦め悪く智の手のひらを撫でる。泣きそうな心持で撫でる。
 しっとりとしている。手の甲を撫でると、ひくん、と智が身体を痙攣させる。途端にぎゅっと手首を掴まれ。
「こ・ら」
 智が言った。
 智がそう言う理由は、もちろん水原にも分かっている。不安な時、暦はどうしても身体を求めてしまう。あさましいな、と思う。
 自分が智を好きだと言うことを、周りに知られたくないのは暦本人である。自分が道を外れたことをしているのだと、思い知らされることがある。女なのに女を好きになるなんて、いけないことだと思う。
 榊と美浜はいいのだ。彼女達には彼女達の恋愛がある。けれど自分はこれでいいのか判らない。社会常識に照らし合わせれば、自分の方が異端だ。
 いや、それより、智が何時自分から離れていくかが怖いのかもしれない。男と結婚するのが普通だと、智が離れていったらどうしようと考えると、とても哀しい気持ちになる。
 ――だから、身体を求めるのか!
 ああ汚らしい。自分のエゴ。欲望。けれど自分には、愛を証明する器官はついていないのだ。二人が子をなすことは、出来ない。
「何考えているの? よみ」
 智の声に、何でもないよ、と水原は言って、そっと自分の手を智の腕に触れさせる。抵抗しない滝野。何も言わないのをいいことに、水原は自分の手を今度は柔らかな胸元に触れさせる。
 抵抗しない滝野。
 ふう、と息を吐く水原に、彼女は、どうして大阪があそこにいたんだろうね、と言った。
「え? 」
「だって、よみの隣にいるのは、神楽だろ? それなのにどうして大阪がいるんだ? 」
「あ! 」
 ちょっとした驚き。それとは別に、指先は滝野の乳首を触っている。Tシャツの上から、指紋を擦るようにして、じわじわと。軽い自己嫌悪が、刺激的なスパイスになっている。みるみるうちに硬くなる、二つの蕾。


109 名前:『全くこの頃の日常は!』《15》[sage] :2006/03/28(火) 15:40:30 ID:WH+Heq4e

ちゅ。

 とても近いところで、キスの音がした。もちろん、水原と滝野のものではない。と言うより、もうそんなことは水原にとってどうでもいいことだ。今はただ自分の目の前にいる彼女の身体を味わう方が先だ。
「偶然、寝相が悪くてこっちに転げてきたんじゃないか? 」
「どうだろうね」
 何食わぬ顔、何食わぬ声で水原と滝野は会話をしている。それなのに暦の手は、もうTシャツをめくり上げて、じかに滝野の胸を犯し始めている。智の腰が、くなくなと動き始めているのが分かる。そのくせ彼女の口調はまるで乱れていないのだった。
「もしかしてさ」
「何? 」
「ずっと聞かれてたりして」
「何を? 」
「さっきからの、話」
 げ、と暦の手が止まった。いじわるそうな滝野の笑い。
「気になる? 」
「ま、まあね」
 そう言って暦はそっと手を退いた。それはそうだろう。智は結構きわどいことを言っていた。
 みんなに二人の関係を知られるのはいいのだ。別にそんなことでこの友人関係がおじゃんになることはあるまい。皆も受け入れてくれることは分かっている。けれどキスしたり喘いだりしているのが、聞かれているのは困る。
 恥ずかしいったら、ありゃしない。
 本当は何かのきっかけで、知って欲しいのだ。自分達の関係を。むしろそのきっかけが欲しいくらいなのだ。
 水原は思う。
 ――もしかすると、榊達もそれを期待しているのかもしれない。
 何してんだよ、と声をかけてくれれば、実はですね、といえるかもしれない。そんな期待がどこかにあるのではないか? けれどそれは中々踏み出せない、一つの壁だ。
「そんなばかな」
 そう言って、水原は布団を頭からかぶってしまう。それはずいぶん虫のいい考えだ。何もかもぶちまけてしまいたい気持ちと、隠しとおしたい気持ちで頭がぐしゃくしゃになる。
 だから布団がばっと暴かれて、智が覆い被さってきたときは、一瞬拒んだ。


 

110 名前:『全くこの頃の日常は!』《16》[sage] :2006/03/28(火) 15:41:36 ID:WH+Heq4e

「ばか」
 身を強張らせた水原に、熱く濡れた低い声で滝野が囁いた。
「さんざ人に熱を与えといて、しらんぷりかよ」
 そこから押さえつけるようなキス。爆発するようなキス。暦はその熱を一生懸命受け取る。唇で、舌で、口蓋で顎で。ちゅ、ちゅ、と激しい音と共に、ぐるりと身体を反転させる。今度は覆い被さるのは暦の方だ。
「しないんじゃ……。なかったの? 」
「だって、あんなことされて、がまんなんて」
 智のTシャツをめくり上げて、そこに唇を押し付ける。すぐに目指す突起は見つかった。かり、と甘噛みする。
「あはあ! 」
 大きな智の声に、暦が唇で蓋をする。じゅくじゅくと、涎がこぼれるような、熱いキス。まだ身体の奥に残っている酔いが、燃え上がった性欲を盛んに掻き立てる。
「ともは、こえでちゃうもんね」
「だからやめてっていったのに」
「キスじゃ、ものたりないんだ」
「うん」
「かわいいよ。とものこえ」
「すき」
「え? 」
「よみ、た・い・す・き」
 盛んにキスを繰り返していた暦の動きが止まる。もうどれくらいこんなキスをしているのか。智の身体に押し当てていた腰の芯が、少しこすれるだけでひくひくしてしまう。クリトリスが勃起しているせいだ。
 掠れた智の声に、泣きそうな声で、暦が。
「私だって、たいすきだよ。智」
 闇の中で、智が笑った。よくはみえないけれど、涙が出ているようで、それがまた愛しくて、暦は再びキスに没頭していく。
 好き。
 好き。
 大好き。
 聞いている人が恥ずかしくなるような、甘いやり取り。そんな時誰かに呼ばれたとしても、けっして気づかないものだ。まして他の誰かの甘い吐息が混じって聞こえたら、なおのこと。その異常な気配が、淫らな心を燃え上がらせる。

「ああ、あゆ――。あゆ……む、ぅっ!! 」
 もちろん、こんな声も聞こえない。

 ただただ。

 顎まで舐めまわし、さんざ甘い声をだす智が、愛しい。
 首筋に音を立ててキスする智が、とてもとても愛しい。

 だから、は、と暦が顔を上げたのは、音がしたからではない。そのまぶしさに思わず目を細めて、光の方向を眺めるためだ。
 横たわった半裸の神楽が、色っぽい涙目でこちらを見てから、慌てて胸元に手をやった。大阪はぽかんと立っている誰かさんを見ている。
 立っているのは、ここの部屋の主である。美浜ちよは冷淡とも思える視線を向けて、わざとらしく。

「あー。

 エヘンエヘン」

 と言った。


 

111 名前:『全くこの頃の日常は!』《17》[sage] :2006/03/28(火) 15:42:19 ID:WH+Heq4e

「そんじゃ、飲みなおしますか」
 それに対して智は自分の胸元を隠しもせず、にんまりして言う。真っ赤になった暦は、あああああああのな、とどもった。それをぐっと抱きしめて、智がキスする。
 優しい恋人のキス。
 ばれてしまった驚きと、混乱と、なんだか分からない感情で、暦の目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。その背中をよしよし、と智の手が撫でてもう一度。
「そんじゃ飲みなおしますか」
「飲もう」
 榊がどっかりあぐらをかいて、側に座った。着衣を直した大阪が、コップを取りに下の台所に向かう。神楽は急いでついて行く。
 暦の涙は止まない。でも、榊があんまり真剣な顔をしているので、笑い出しそうな感覚に、横隔膜がひくひくする。

                                               (了
 

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