今までガラス張りの机の上に詰まれた山のような量の課題とにらめっこしていた神楽は、大きく後ろに倒れて組んだ掌を頭の後ろに差し込んで寝転んだ。
そして見渡すように頭だけを傾けたり、あまり意味のないことを始めた。
それにしても、いつ来ても信じらんない部屋だな……。これがあの“榊”の部屋だなんて、最初は流石にちょっと引いたっけ。『今日遊びに行っていいか?』っていうといっつも『ごめん、今日はちょっと……。』だもんな。
まあ榊が私の事避けてたりしてたんじゃなくて、ただ恥ずかしかったからっていうだけだったのは正直ホッとしたけど……。
部屋見られるの気にしてたなんて、結構かわいいとこあるよな。
でも、かおりんが知ったらどう思うかな? かおりんはかっこいい榊が好きなんだろうから、……やっぱりショック大きいよな。
……あ〜、どうでもいいや……眠いなぁ……寝ちゃったら榊、怒るかな……? ……どうでもいいや……眠い……。
そんなことを考えながら、少しずつ神楽は夢の世界に入っていった。と、その時……
――バン!
大きな音と共に神楽の右手側にあるドアが勢いよく開かれた。部屋の外の暑い空気が少し入ってくる。
「神楽……」
ドアの前で榊が言った。ちょうどスリープ状態に入っていた神楽はバッと起き上がり、うろたえた。
「うわぁ! あ! その、ね、寝てないからな!? その……こうやって目を閉じて集中し……榊……? ……それ……」
ここで初めて神楽は榊の異変に気づいた。榊の大きな胸の前に、クロスされた腕に優しく包まれた小さな動くものがあった。仔猫だ。
「……で、どうしたんだ……? こいつ。」
サラダ皿に注がれたミルクをちびちびとなめるトラ猫の背中を人指し指で撫でながら神楽が聞いた。
「……商店街から帰る途中に、公園のトイレによったんだ……出てから、ベンチの下にダンボールがあるのに気づいて……まさかと思ったんだが……」
「ふ〜ん……この炎天下の中でか、酷いことするやつっているんだな……」
神楽は仔猫から視線を外して榊のほうを向きなおった。榊はまだ仔猫をみている。どことなく悲しげな瞳で。
「でも……榊んちって確かさ……。」
「当然わかってるんだ……でも、私がなんとかしなきゃ……この子は……死んじゃうんだ……! ……そう思ったら、いつの間にかここに……。」
確かに、猫に関心がない神楽でも明らかにこの仔猫がかなり衰弱しているのがわかる。
一日二日そのまま放置されていたなら、いや、この暑さのなかならばおおよそ今日中にもこの仔猫の身体が固く冷たくなるのは確実にみてとれる。
「……アレルギーがどうとか言ってはいられない……死んじゃったらそれでおしまいだ……。」
「うん……榊、医者とかはいいのか……?」
「今日は定休日なんだ……。」
榊は即座に答えた。何故ペットを飼ってもいない榊が定休日と知っているのか、という疑問がわくほど神楽は賢くなかった。
「そっか……。」
「でも……多分、栄養失調とストレスが原因だと思う。……栄養をとって安静にしていれば良くなると思う……。」
「ふ〜ん、じゃあこれからこいつ、榊が飼うのか?」
内心、よくわかるもんだな、と少し感心しながらまた神楽が口をひらいた。
「……それは、できない。二、三日私が預かってあげるくらいならいいだろうけど……。後は引き取り手を探す……。」
「……そうか。」
それ以上、猫の話はしなかった。自然に二人とも、机の上に詰まれた神楽の宿題に目がいったからだ。榊は気が付いたように立ち上がった。
「忘れていた……コーヒーでも入れてくる。」
「あ、いいよ榊。今日は私もう帰るよ。宿題だけ貸してくれ。」
――なんとなくだけど、今日はもう集中出来ない気がする。それに、榊もこいつと一緒にいたいだろうしな。
「……そうか……。」
榊も神楽が気を配ってくれていることを理解しているため、余計なことは言わずに、自分の宿題と神楽の宿題を鞄にしまう姿を見ていた。
窓の外を見ながら神楽は、まだ暑そうだな、と呟いた。
「じゃあ榊、今日はありがとな。また来るから。」
「うん、宿題頑張って……。」
「ああ。」
――パタン……
神楽が家から出ていったことを窓から確認すると、榊は机の上に置いてあったエアコンのリモコンを取って、温度を少し緩めた。
榊は仔猫のそばに腰をおろして、神楽のしていたように人指し指で背中をなではじめた。仔猫は丸くなって寝ていた。
なぜか、ひどく頭痛がした。だが榊は気にしなかった。
「可哀想に……でも、生きていてよかったね……。」
――こんな小さな身体で、あんな暑さの中、自分が何者なのかも知らないまま、この子はただ誰かの温かい手を待っていたんだ……。
こんな姿になって……一人ぼっちで、何も知らない場所で、どれほど辛い時間だっただろう……どんなに不安だったんだろう……。
……絶対、もうそんな思いはさせない……!
ひどい頭痛はまだ続いていた。
続く