842 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 18:54:07 ID:vhT+I5DD

 

夢を見ていた。

包み込むように柔らかく、とろけてしまいそうに熱い。

目に映る白と黒のコントラスト、血のような味わい。

透明な蜜のしたたり。

脳に響く甘い残響。

ひたすら何かをむさぼり続けた、圧倒的な飢餓感。





 

 

843 名前:最後の勝負に手にするものは(一話)[sage] :2006/05/27(土) 18:56:21 ID:vhT+I5DD

 

「…ぅん…」
榊の目がうっすらと開かれた。
カーテンの隙間から漏れる朝日はまだか細く部屋全体は薄暗い。
少しずつ眼が覚めていくにしたがって、夢の感触は剥がれ落ちていく。
落ちてしまった夢は、見た事すら記憶からなくなっていった。
それでも腕の中にある気持ちよさだけはリアルだったので、榊は他の事は忘れてもその存在に
無心に執着した。
ほんのりと漂う優しくて甘い匂い、すべすべとした肌触りに加えて官能的な柔らかさ。
寝ぼけたままの状態で、榊はしばしその感触を楽しみ続けた。
いい夢だと、榊は思った。もう少し味わっていたくて眼を覚ましたくなかった。
榊の視界が再び閉ざされかけた時、腕の中の気持ちよさが微かに動いた。
待って、もう少しだけこのまま…



…なんだこれは?



一気に眼が覚めた。見慣れない電灯。徐々にはっきりと見えてくる部屋の輪郭。
違う。ここは自分の部屋ではない。が、見知った部屋ではある。
完全に覚醒した今でも腕の中の存在はリアルだ。小さな寝息も聞こえる。
おそるおそる頭だけを動かして、その存在に眼を向けた。

 

 

844 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 18:58:58 ID:vhT+I5DD

 

はらりと乱れているやや茶色がかった髪の毛を持つ人間の頭が、自分の胸の上に置かれている。
それを覆うようにして自分の両手は、その人物の背中にしっかりとまわされていた。
そして肝心の腕の中にいるこの人物。どうやら自分よりもひとまわり小さな女性らしい。
というのも、二つのものすごく柔らかいものが、自分の身体の上でその形を崩しているのだ。
おまけに自分もその女性も何一つ身に纏っていない。
事態は分からなかったが状況は把握した。そしてそれに間違いがなければ、とんでもなく大変な
事態に陥っている。それは相手が同性であるという理由だけではない。
朝まで同じベッドで裸で抱きしめ合っていたらしいその女性は、自分のよく知る人物なのである。
榊は比較的、状況判断には柔軟に対応できる女だが、今のこの状況は流石に面喰らった。
今すぐに彼女を起こして事の顛末を説明してもらうのが一番なのだろうが、自分の胸の中にいる
彼女の温度はあまりにも心地いい。

「…ん〜…」

可愛い声があがり、彼女が軽く身じろきした。どうやら起きたようだ。
彼女はゆっくりと半身を起こして、目覚めたばかりでぼんやりとした顔を榊に向けた。
もはや疑いようのないぐらい見知った顔である。
その女性と榊の目が合う。眠たげだった彼女の瞳に光が戻り――

「おはよう。榊」

優しく甘い、そんなふわりとした表情で、神楽は微笑んだ。
ちょっぴり恥ずかしそうに、けれどもとても満ち足りた、幸せそうな彼女の笑顔。
少し気だるそうな動きで乱れた髪に触れると、照れくさそうに笑った。
「何だよ?ぼーっとして」

………確かに榊は惚けていた。

はたして、今自分の目の前にいるのは本当に神楽なのだろうか?
こんなにも彼女は綺麗だったろうか?
いや、もちろん神楽が美形であるということはよく分かっている。だけど、今こうして
自分と向き合っている彼女は何というか、初めて見る神楽だ。輝かしい瞳も柔らかな体も
香ばしい匂いも透き通った声も、その全てが自分を強く惹きつけている。
榊はただ息を呑んで、彼女に見入っていた。
そうしている間に首に腕が巻きつけられて、神楽の顔が近づいてきた。

 

 

845 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 19:02:38 ID:vhT+I5DD

 

「ん…」
気づいたときには柔らかな唇が榊のそれに押しつけられる。そのしっとりと濡れた感触に榊の
思考はぷつりと途切れる。自然、榊も神楽の背中に手を回していた。
やがて神楽がゆっくりと唇を離していく。至近距離で見つめ合うと、神楽の瞳がうっとりと潤んで
いるのが分かった。
ああ、ひょっとしてこれは夢の続きなのかもしれない。何の夢だ?もう今朝みた夢の内容なんて
忘れてしまったというのに。
「これで…目が覚めたか?榊」
「…っ」
名を呼ばれた瞬間、強い衝動が湧き起り、思わず腕に力を込めて神楽を強く引き寄せると、神楽は
そっと肩に手を置いてやんわりとそれをたしなめた。
「こら…だめだよ。もう朝なんだし…そろそろあいつらも起きて来ちまうかもしれないだろ?」
「あいつら?」
神楽以外にも誰かがいるということか。そう言えば今自分がいるこの部屋には先程から見覚えが
あるのだが…。何ということだろう。どういう経緯で自分がここにいるのかすら、思い出せない。
「珍しい。あんたも寝ぼけたりするんだ?」
くすりと神楽が笑う。見とれるくらい、柔らかな笑顔だ。
「…その、寝ぼけるというか…」
「シャワーでも浴びて、スッキリして来れば?」
そう言って笑いながら神楽が身体を起こしたので、よく締まった美しい裸体が榊の目の前にさらさ
れた。惚けたように見入っていると、その視線に気づいた神楽が慌ててシーツで自分の身体を隠し
た。そんな仕草もドキリとするほど艶かしい。
最早、榊の心は完全に神楽の虜になっていた。もうこのまま神楽を抱きしめて、ずっと自分だけの
ものにしてしまいたかった。だが、やはり確かめなくてはならないことがある。もちろんそれに
よって彼女を怒らせるかもしれない。傷つけるかもしれない。しかし、それをせずに流されてしま
うのをよしとするには、目の前の彼女の存在は榊にとってあまりに大きすぎた。

 

 

846 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 19:05:39 ID:vhT+I5DD

 

「……神楽」
「ん?」
神楽はシーツを身体に巻きつけたままベッドから降りた。
「えっと…その、ちょっと聞きたいんだけど…」
「だから何だよ?」
「……………私、何でここにいるんだ?」


その瞬間、二人の間の時間が止まった。


やけにゆっくりとした動きで神楽が振り返る。
「は?」
顔が真っ白になっていた。
「…あの……だから昨日の晩、いったい何があったの?」
もちろん榊としてもナニがあったかぐらいは理解しているのだが、そう尋ねる以外にはなかった。
「なにがあったかって」
抑揚のない声で神楽は返事をする。白くなっていた顔はだんだんと青ざめていった。
「まさか…お前……、お、覚えてないの?」
「…うん」
「本当に?何も?」
「…うん」
「私に…したことも?」
「…う、うん」
「嘘だろ?いきなり抱きついた事も覚えてないの?キスした事は?全身あちこちを噛んだり、
吸い付いてきたりした事は?最低3回以上はした事は?全部…何一つ思い出せないっていうの
か?」
「………」
「それじゃあ…私に」
それ以上は何も言えなくなってしまったのか、不意に神楽は顔を伏せた。
肩を小さく震わせたまま、何も喋らない。
「か、神楽?」
呼ばれても、神楽は顔を上げない。
泣いているのかもしれない。
榊は慌てて下着とズボンを身に付けてベッドから降りると、神楽の元へ駆け寄った。

 

 

847 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 19:08:38 ID:vhT+I5DD

 

「かぐ…」
「……け…」
顔を伏せたまま、神楽が小さく呟いた。
「何?」
もう一度聞き取ろうと耳を近づけたそのとき。

「 出 て 行 け ! ! ! 」

空気がびりびりと震えるような声が、大音量で耳元に響き渡り榊は身体ごとのけぞらせた。
衝撃波が左から右へ突き抜けて、頭の中に何時までも響き渡っている。
「…か、神楽。耳が…」
「うるせえ!うるせえ!うるせぇぇぇえっっ!!出て行けったら出て行けっ!アンタの顔なんか、
もう二度と見たくないッ!!」
異論も反論も息をすることも許さない勢いでまくしたてる神楽の口からは牙が生え、茶色の頭から
角が飛び出し、オーラに乗って浮き上がってるように(この時の榊にはそう映ったらしい)見えた。
その怒りの凄まじさに、流石の榊も思わず気圧されてたじろいている。
「何をやってんだ?」
瞳を爛々と輝かせながら、神楽は手近にあった物を手当たり次第投げ始めた。枕、毛布、衣類、
空き缶、リモコン…、ありとあらゆる物がはっきりと殺気を込められて飛んでくる。
「うっ!ちょ、ちょっと待って!本当に危ない…」
「うるせぇぇええええッ!」
全力で投げ込まれた置き時計をあやういタイミングで逸らすと、榊は脱ぎ捨ててあったシャツを
取り上げ、扉に向かって脱兎のごとく逃げ出した。
部屋を飛び出して廊下を突き進み、階段の手前まで駆けて来た所で、榊はその場に座り込んだ。

 

 

848 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 19:10:36 ID:vhT+I5DD

 

「…はぁぁ!」
こんなに本気で走ったのは、一体何時以来だろうか。
「…やっぱり、怒らせちゃったか…。はぁ…どうしよう…」
大きく溜息をついて、がっくりとうなだれた。
「それにしても…どうやら本当にしちゃってたみたいだ…」
あの状況、そして神楽の言動…もう疑う余地はないだろう。そういえば身体がやけにすっきり
している気もする。
3回以上…。
すごいな…。結構な回数だと思うが、全然何も思い出せない。
「…どうして覚えてないんだ?私に何があったんだ…?」
両手で自分の顔を覆う。
何て事をしたんだ。それに神楽のことも気になる。いくら同性とはいえ、一夜を共にした相手が何
も覚えてないだなんて言われたらショックだろう。とはいえ、自分もかなりまいっているのだ。
何しろ、これは自分にとっては…
「…"初めて"だったのに…」
もう一度大きな溜息をついた。多分、あの様子からして神楽もそうだったんだろうけど…。
それにしても未だに納得がいかないのが、神楽と部屋に入るまでの過程すら思い出せないことだ。
肝心な箇所がこうもごっそりと切り取られていては、「した」と言われても釈然としない。
自分の身体から、微かに甘い香りが漂ってくる。神楽の移り香だ。
その香りやさっきまでの腕の中の重さの方が、今の榊にとってリアルだった。
そして目覚めた時の神楽の笑顔。ズキリと胸が痛んだ。

「………やっぱり、何も言わなければよかった………」

今更後悔しても遅いのだ。神楽はしばらく自分を許してはくれないだろう。
今後の事、それに失った事を思って、榊は深い溜息をついた。



 

 

849 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 19:12:08 ID:vhT+I5DD

 

いつまでもじっと考えていても仕方がないので、目の前の階段を降りることにした。
歩きながらシャツを着込むと、またも神楽の匂いが鼻をくすぐる。
シャツに首を突っ込んだままの状態で、思わず動きが止まった。
おかしなもので、意識するとあまり感じずに、身体を動かすとふわりと漂ってくるのだ。

くっ。

榊は内心舌打ちをした。
それが何に対しての苛立ちなのか分からない。
自分があまりに軽率だったからか、神楽への強い未練からなのか。それとも、この匂いは
時間が経てば薄れていくものだからなのか。
分からない。それを深く追求しようとは思わないが、それでもざわめいた心を静める事は
できそうになかった。


 

 

850 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 19:15:19 ID:vhT+I5DD

 

外はちょうど朝日が昇ったばかりで、窓から差し込むその健康的な光は今の榊には、妙に
場違いな思いをさせた。
階段を降りたらそのままシャワーでも浴びて気持ちを静めようかと思ったが、その前に台所で
水を飲もうと思った。
喉の奥がざらついたように乾ききっている。水分が欲しかった。
そう思いながら階段を降りてリビングに出ると、こんな早朝だというのにほとんどの面子がすでに
揃っていた。
「…おはよ…」
朝の挨拶を交わそうとした榊だが、中の惨状を目にして眉をひそめた。
ほとんど死にかけているといった具合に、それぞれ明らかに具合悪そうに転がっている。
ちよは目を回したまま床に転がっており、大阪はソファに仰向けになったままぐったりとして
時折何か呻き声をあげていた。暦はテーブルに上半身を預けて、白い顔のままひっきりなしに
こめかみを押さえている。
しかし問題は人間ではなく、このリビングである。
とにかくテーブルの上から床の上からありとあらゆる所に、酒瓶やらビール缶が転がっているのだ。
おまけに部屋全体に漂う酒の匂いときたら、弱いものならその場にいるだけで気分が悪くなって
しまいそうなほどだった。
「…よおぉ〜〜〜……起きたのか………」
暦は榊の存在に気づくと、全く覇気のない声を出しながらよろよろと立ち上がろうとした。
「あ…ちょっと待って」
榊は急いで台所に向かいコップを幾つか取り出して水を注ぐと、その一つを暦に手渡した。
「…大丈夫か?」
「…悪ぃ」
暦は震える手でそれを受け取ると、ほとんど浴びるような形でがぶがぶと飲み干した。

 

 

851 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/27(土) 19:18:17 ID:vhT+I5DD

 

「……何があったんだ?」
「………何があったもクソもねーだろ…あ〜いてぇ…」
言葉を返しながらその茶色の頭をぶんと振ると、床で倒れているちよに近づいていった。
「ちよちゃ〜ん。生きてるか〜?お水いらないか〜?」
「………うん……よみさん……すいません………」
ちよは思いっきり気だるそうに顔を上げると、榊からコップを受け取った。
「…あ…榊さん……おはようございます…」
「…ちよちゃんまで…大丈夫なの?」
「……もう二度と…お酒は…飲みません…」
力なく笑うも水を飲む気にはなれないのか、げんなりとした様子でコップを眺めている。
暦は榊が持ってきたコップを手に取って今度は大阪に声をかけた。
「大阪〜。ほれ、水だぞ…」
「よみちゃん慈悲や〜。トドメさして〜」
「アホか…。ったく、ここに置いておくぞ。…っつ!榊ぃ…何か薬持って来てないか?」
「酔い止めの薬は…持ってきていない」
「あ〜、もうこの際薬なら何だっていいぞ…」
「トドメさしてや〜〜」
「うっせーよ!大阪!」
そう怒鳴った後で、暦は自らの声で頭を抱えた。
どうしようもなく、どいつもこいつも撃沈している。
榊は溜息をつくと、リビングの窓を全開にして中の空気を入れ換えた。入ってくる風でゴロゴロと
転がり出す空き瓶を何本か拾い上げる。
「はぁ〜〜〜こりゃ参った…こんなにひでぇ二日酔いは初めてだ…」
暦は窓からベランダに出ると、大きく息を吸い込んだ。
「あぁ〜〜なんか無駄に空気が美味ぇ…」
「あの…私も水をもらってきていいか?」
「…あぁ……元気なヤツは、好きにやってくれ…」
榊は空き瓶を両手に持ったまま台所に入り、それらを床に置くと流しの水道からコップに水を
注いだ。
八分ほどコップに注がれた水を、ごくごくと一気に飲み干す。
さして冷たくはなかったのだが、やたら美味い。身体中に染み渡っていくようだ。
リビングに入って彼女らの醜態を見た時に、すでに昨夜のバカ騒ぎの事を思い出していた。
そう、昨日は皆でちよちゃんの別荘に遊びに来ており、夜は智が大量に持ってきたお酒でそのまま
宴会になったのだ。だが、思い出したのはそこまでだった。

(続)
 

882 名前:最後の勝負に手にするものは(二話)[sage] :2006/05/29(月) 21:35:48 ID:f6L+T2TK

 

きっかけはこの夏休みにアメリカから帰ってきたちよからの電話だった。
久しぶりに皆で集まらないかという事だ。どうせなら皆で夏をとことん満喫しようと、自分の別荘
へしばらく滞在するつもりだと言う。
榊は当然、異存はなかった。そして神楽、智、暦、大阪にも了解が取れたのだが、ゆかり、黒沢
先生やかおりは生憎と都合が取れなかった。ので、いつもの6人だけでの集合となる。
幸い榊はすでに車の免許を取っており、少し大きめの車を借りて安全かつ快適に別荘への道のりを
車の中で楽しめた。


 

 

883 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/29(月) 21:38:58 ID:f6L+T2TK

 

智と大阪がこっそり持ってきた酒をどっかりと持ち出してきたのはその夜であった。
「さ〜さ〜、今日は久しぶりに皆が集まった夜なんだからどーんと乾杯しようか!
うるさい大人もいないことだし!」
「お、おいおい智!お前、酒なんか持ってきたのかよ!!ていうか、何だその尋常じゃねぇ酒の
数は!?」
「近くの酒屋で安売りしてたんで大阪と二人で買い込んできた。あ、もちろん後でお金は貰うよ?」
「どうにで…お前らのバッグがやたら膨れてたわけだ。ま、こいつらにしちゃ気が利くな」
「さ、そういう事で…皆!今日は久しぶりの再会って事で、じゃんじゃん盛り上がってこうぜ!!」
「ちょっと待て!私らはともかく、ちよちゃんはどーすんだよ!?」
「…飲ませる」
「えぇ!!あ、あの私お酒なんて飲んだことないし…大体未成年が…」
「ストーップ!!」
智はピッと人差し指をちよの唇に押し当てて、無理やり言葉を止めさせる。
それからズイッと顔を近づけて、至近距離からちよの瞳を覗き込んで言った。
「ちよちゃん、せっかくこうして皆で集まったんだから楽しくお話したいじゃない?
そしてそのためにはお酒は必要不可欠なんだよ?特に、大人の付き合いではね?」
お・と・な・の、とにやりと意地悪く笑って、ちよの目の前で手にした酒瓶をぶらぶらと揺らす。
「あぁ〜、そういえば君だけはまだ子供でしたね〜。子供のちよちゃんじゃあ〜、このお酒は飲め
ませんよね〜?それじゃあ君には子供らしく、オレンジジュースでも持ってきてあげましょう
か?」
ちよの顔が首まで真っ赤に染まっていき、ぷるぷると両肩を震わせた。
怒っている。いくら天才といっても中身はまだまだ年相応に幼いのだ。
それにちよは子供扱いされるのをひどく嫌う。
かくして智の計算通り、ちよは見え見えの挑発に乗ってしまった。
智からさっと酒瓶を奪いとると、「飲みます!」と強く言い放った。
したり顔の智の横で暦は深く溜息をついた。
「あ〜、もう私知らねぇぞ。どうなっても…」
「ちよちゃん…大丈夫かな…」
「ま、そう心配すんなよ榊。頃合いをみたら止めてあげりゃいいさ。それより!久しぶりに
勝負しない?どっちが酒強いか…勝負勝負ぅ♪これなら自信あるぜ!!」
「え…いや…あの…」
「お!面白そうじゃん!私もやるやる!あ、どうせなら全員でやろうよ!この中で誰が一番お酒に
強いのか!?興味ない?」
「あ〜、ええなぁそれ。私は自信あるで」
「ふん…私も自信あるぞ」
「智ちゃんにはぜ〜ったいに負けません!」
「よっしゃ!なら決まりだ!!」
かくして誰が一番酒強いかバトルが始まったのだった。


 

 

884 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/29(月) 21:41:02 ID:f6L+T2TK

 

最初こそ賑やかに楽しげな雰囲気で酒が酌み交わされていくのだが、徐々に気分を乱す者が増えて
いき、数時間後には互いの意地をかけた戦場と化していった。

「…ぐ…」
「…あれぇ?ひっく!よみちゃん、手が止まってるで〜!ひっく!」
「へへん…よみぃ、無理しない方がいいんじゃないの?ほら、一言降参って言えば私がそれ飲んで
やるよ…うぷ」
「はぁ?バカ!誰が降参なんてするかよ!ちょっと休憩してただけだっつーの!」
「よみ…お前あんまり智の挑発に乗らない方がいいんじゃないか?顔、…何かもう青いぞ」
「…ちよちゃんも、そろそろ止めた方がいいよ…」
「い〜へ!榊ひゃん!とめらいへくははい!わらひはへっはいに智ひゃにはまけまひぇん!!」
「……何て言ってるのか分からない…」

このように誰かが止まれば、他の一人が挑発する。また飲む。止まる。挑発する。また飲む。
こんなことを深夜までやっていたのである。
さすがに普段よりも酔いが回るのは早かった。
だが榊もやたら律儀な性格なので(流されていたのだが)覚えている限り最後まで酒を飲み続けて
いた。


 

 

885 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/29(月) 21:43:45 ID:f6L+T2TK

 

しかし、覚えているのはそこまでで次に目が覚めたら、腕の中に神楽がいた。
そこに至るまでの経過が、ぽっかりと記憶から抜けてしまっているのだ。
酔って記憶をなくすという経験は、彼女にとって初めての事で正直随分と戸惑っている。
不意に、ここにはいないはずの神楽の匂いが甦える。
その時、ほとんど場違いなくらいの大声が部屋中に響き渡った。

「みんなーー!!おっはよーーー!!!元気になったーー!?」

…得も言われぬ呻き声が、榊の背後で次々と上がりだした。
彼女が振り向くと、元気いっぱいに部屋の中に入ってくる智と、のたうちまわっている三人の
姿が見えた。
「ん?皆何で踊ってんの?打ち上げられたマグロの真似?」
「…この…バカ女…人の耳元で…大声だしやがって…」
窓際で暦が半死半生でうずくまっている。
「……お前は元気みたいだな」
「当然!私はいつだって元気いっぱいだよ」
「そういう意味じゃねーよ…」
智はとういうと昨夜は遅くまでさんざん騒いだ末に、突然ころんと横になって寝てしまった。
しかもいくら声をかけても揺すってみても、(神楽に)殴られても(暦に)蹴られても全く起きる様子
がなく、すやすやと眠り込んでいるので、そのまま床にほったらかしにされていた。恐らく眼を
覚ますまで、ずっと放置されていたのだろうが、そんな事をいちいち気にする女でもない。
智は酒自体は特別弱くもないし強くもない。ただある程度飲むと、前触れなく寝てしまうのだが、
その代わり二日酔いにはならなかった。謎である。

 

 

886 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/29(月) 21:45:58 ID:f6L+T2TK

 

「ねぇねぇよみぃ〜、朝ご飯はー?私、お腹減っちゃった」
「…マジかよお前…信じられない奴だな。…ったく、ちょっと待ってろ…」
「……ご飯食べさすくらいならトドメさしてや〜〜」
「…よみさん…私もちょっと…ご飯は無理…です…」
「いや、何か軽い物でも胃に入れておいた方がいいよ。お粥作ってあげるからさ」
「え〜?そんなんじゃなくてベーコンと目玉焼きみたいな…」
「却下だ!!」
「…トドメ〜〜〜」
たとえ世界が滅びる時が来ても、この子はこうして笑っているのかもしれない。と榊は疑いもなく
そう思った。
そんな榊に気づくと、智は死にかけている大阪の側で遠慮のない大声を放った。
「あーー!榊ちゃん、おっはよーーー!!そういや昨日の飲み比べ、結局誰が勝ったの!!?」
「……と…ド…め…(ぴくぴく)」
「……あぁ、そういえばそうだったな…結局お前と神楽が最後まで飲んでたんだよな?あれから
どうなったんだ?」
「……………」
興味津々で智と暦に尋ねられ、榊の額から冷たい汗が零れ落ちた。
もちろん覚えていない。覚えていたら今こんなにもやもやした気持ちを抱えてなんていない。
「わ」
分からない。と言おうとした言葉は透き通った声によって遮られた。
「それなら私が勝ったよ。決まってるだろ?」


 

 

887 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/29(月) 21:48:24 ID:f6L+T2TK

 

「おっ!神楽じゃん!!おっはよーーー!!」
「おはよう」
ニッコリとした笑顔で返す神楽の格好は、昨日までの半袖Tシャツに短パンといった軽装ではなく、
手首まで隠れる長袖のTシャツに黒いジャージズボンだった。
そういう格好はランニングの時にはしていても、朝から着てくることはかなり珍しい。
「なんだ神楽が勝ったのか。飲み比べ」
「まーな。あの後は榊が酔っぱらって踊り出すから大変だったぜ」
「え…わ、私は踊ってなんて…」
「何だよ、どうせ 覚 え て な い ん だ ろ ? 」
ぎろりと、氷のように冷たい視線が榊に向けられ、すぐに逸らされた。
(うぅ…)
そう言われてしまえば、抗いようがない。自分が覚えてないことを神楽が覚えている以上、
彼女の言葉が真実だと言える。
「へぇ、榊までそんなに酔っぱらったのか」
「いやぁ〜、すげぇな神楽!完璧超人榊ちゃん相手に一歩も譲らなかったうえに、酔い乱させた
なんて!!ちょっと見直したぜ!」
実際にはその完璧超人相手に、一歩どころか本陣まで攻め込まれているのだが、何も知らない智は
微妙に引きつっている神楽には気づかなかった。
「…顔色悪いな、よみ。今日の朝飯はなしか?」
「いや、ちゃんと作るつもりさ。あ〜、でもその前に部屋の中片付けないと…。ったく、足の
踏み場もないんだから…」
そう言って足元に転がる空き瓶を、うんざりとした様子で眺めた。

 

 

888 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/29(月) 21:51:49 ID:f6L+T2TK

 

「あぁ、それなら心配すんな。それは罰ゲームで榊が一人で片付けることになってるから」
「!?」
「え?そうなの?アハハハ!それじゃ頼んだよ、榊ちゃん♪」
「あ…あの……神楽?いつの間にそんなルールになってたんだ?」
「勝ったのは私。私がルールを決めて何が悪いってんだ?だいたい決まってたかどうかなんて
覚えてないんだろ!?」
またもや底冷えするような視線を榊へと向ける。その冷え切った視線の奥には、燃えさかる劫火が
垣間見えた。
「……………」
背中に嫌な汗が流れた。
(まずいな…)
半端なく怒っている。しかもこれはよくない怒り方だ。
普段、普通に神楽が怒る場合の、すぐ見て分かるような開放的な怒り方ではない。
そういう時はギャーギャーと怒鳴りだすが、その分怒りが収まるのが早い。
今の怒りは、他の皆には隠せられ、自分に向かう時には抑えきれずに吹きこぼれている。
内に隠れているだけに深く強い。
暦は何となく様子が変な事に感づいたようで眉をひそめたが、軽く肩をすくめると気づかないフリ
をすることにしたようだった。
「そういうことなら、榊!お片づけは任せるぞ。私はすぐに朝飯作りに取りかかるとするか…」
「頼むな、よみ。私はちよちゃんと大阪の面倒をみてるからさ」
「それじゃあ私は、外でぷらぷらと散歩でもしてこよう」
「…コラ、お前も私と一緒に朝飯作るんだよ…」
「…私は、朝飯無理やでぇぇぇ〜…」
「……いいから…お前はもうちょっと死んでろ……」
暦と智は台所へ行き、神楽はちよの側に座って優しく声をかけたりしていた。
その腰が座る時によろめいたのを榊は目の端でとらえたが、神楽の方はもはや榊の方を向いたり
しなかった。

飲み会の片づけぐらいであの怒りが収まるとは、どうしても思えない。
榊はまた一つ溜息をつくと、大人しく部屋に散乱している酒の容器を拾い集める作業に集中した。

(続)
 

925 名前:最後の勝負に手にするものは(三話)[sage] :2006/05/31(水) 09:25:08 ID:I686A4QP

 

やがてテーブルに温かなお粥が並べられ、智がブーブーと文句を言ってる以外は静かな朝食と
なった。正直榊にも少し物足りなかったが、出された物にたいして不平を言う女でもないので
黙って食事を取り続けた。
高校の時から神楽の席は榊の隣になる。テーブルに対して人数が多いので、隣同士だと肘が触れ
合いそうな近さなのだが、今日に限ってやたら距離を感じる。距離というよりは座っている間に目に見え
ない壁があって、話しかける事も遮断されているという感じだ。
その拒絶されている空気は、かえって神楽の存在を意識させた。
「ごちそーさん」
「ん?何だ神楽、もういいのかよ?おかわりならあるぞ」
「いや、いいよ。ありがとう」
お腹が空いたと言った割には神楽は小食で、それを見た暦は不思議そうに首を傾げた。
席を立ち皿を運ぼうとして…神楽は急に体勢を崩した。反射的に榊がそれを支える。
右肩に神楽の重みを感じた。今朝の情景がそれに呼応するように思い起こされ、知らない内に
掴まえた指に力が込められた。その途端、神楽が榊を突き飛ばすように離れ、椅子の上に片膝を
ついて立ち上がる。
これには二日酔いでうだっていた他の面々も、驚いたように顔を上げた。
「…どうかしたんですか?神楽さん?」
「ううん。何でもないよ」
ちよにそう笑顔を返すと、神楽は何事もなかったようにお皿を持ってその場を去っていった。
ピンと張った背筋には何だかやたら気合いが入っていて、誰にも声をかける隙を与えない。
「……榊。お前イヤらしい所でも触ってしまったんじゃないのか?」
「………触ってない」
今のは。とこれは心の中で呟いた。やったとしたら昨晩の事だろう。困ったものだ…。
榊はテーブルに向き直ると、探るような暦の視線を無視して、またゆっくりと皿の中身を口に
入れていった。


 

 

926 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:27:43 ID:I686A4QP

 

その日、天気は快晴。空には雲一つなく、海からは涼やかな風が吹いてきている。
神楽は二階のベランダで物干しに洗濯物をかけていた。真っ直ぐに伸びている物干し竿には
綿製のシャツやTシャツ、そして真っ白なシーツが気持ちよさそうにはためいている。まさに
絶好の洗濯日和といった天気で、これなら数時間で乾いてしまうだろう。
長袖にジャージでは、いささか暑そうではあったが神楽はさして気にする様子もなく作業を続けて
いる。額にはうっすら汗が滲んでいた。
カゴの中からまた一枚シャツを取り出して、ばさっと風にはたいては広げる。
それを物干し竿に通すと、一息ついて腰をさすった。
「痛むか?」
不意に声をかけられて、神楽が驚いたように振り返る。いつの間に来たのか、榊が戸口に寄り
かかるようにして無表情に立って神楽を見つめていた。二人の間を干された白いシーツがふわりと
風になびいて、彼女らの姿を見え隠れさせていた。
神楽は何も答えずにふいっと顔をそむけると、そのまま作業に戻った。無視されるのは予想の範囲
だったらしく、榊は別段気にする様子もなくゆっくりと神楽に近づいてきた。
「やっぱり…私のせい、だよね?」
自分を無視する背中に、遠慮気味に声をかける。途端に神楽が振り返ってギロリと睨みつけた。
だがその顔が僅かに赤くなっていたので、榊は納得する。どうやら昨晩の自分は、よっぽど手荒に
事をしていたらしい。というよりも、自分も神楽も慣れていないのがあるだろう。いや、両方か。
同時に、神楽がようやく反応を見せてくれたので少しだけホッとした。
だがその神楽は、そう簡単に榊を許す気はないようだ。榊に向けられたその背中は相変わらず
頑なで、それ以上の話のとっかかりを彼女に与える気配はない。
それにはめげず、何かとっかかりを見つけようと懸命に言葉を探した。
「…その格好、暑いんじゃないか?もっと涼しい格好をした方がいい…」
ピタリと神楽の動きが止まった。しばらく黙っていたが、やがてボソリと返事をした。
「……着られねぇんだよ……」
「え?」
小さすぎて聞き取れなかったので、再度聞き返した。
「…だから着られねぇんだよ」
「何でだ?」
途端に神楽は凄い形相でキッと睨みつけると、一気にまくしたてた。
「どっかの誰かさんが、身体中に跡をつけてくれたから着られねぇんだろうが!!」
「………そうか」
言うだけ言うと、神楽は背中を向けて作業を続け出した。気のせいか、ばさばさと洗濯物の水気の
切り方が荒くなっているように思える。
榊は困った表情で両手のひとさし指をくるくると絡めた。もうこれ以上どう話を進めていいのか
分からない。ほとぼりが冷めるまで放っておいた方がいいのかとも思うが、昨夜のことがことだけ
に榊なりに精一杯気になってはいるのだ。
そんな榊の身体を優しくシーツが纏わりつく。洗い立てのシーツは、まだ湿ってはいたがいい匂い
がした。昨日のなごりが残っているのではないかと、無意識に手に取ってくんくんと匂いを嗅いで
しまう。そうして考えると、清潔なシーツが妙にいやらしく思えるから不思議だ。
「なに嗅いでんだよ!?」
その声で我に返り振り向くと、神楽が洗濯物を握りしめたまま、真っ赤になって榊を睨んでいる。

 

 

927 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:31:28 ID:I686A4QP

 

「あ……何となく……」
「何となくじゃねーだろ!ばか!」
「…ん?…なんか赤いシミみたいなのが…」
「…!!ど、どどどど何処!!?」
神楽は持っていた洗濯物を放り出して、榊の所に飛んでシーツを調べ出した。
「すまない。気のせいだったみたいだ」
「……」
真っ白なシーツを握りしめたまま、神楽は黙してわなわなと肩を震わせ始めた。くるりと榊の
方へ振り返ると、右手を伸ばして榊の頬を思いっきりつねった。
「………いひゃいよ……かふは、ははひふぇ…」
「アンタが悪いんだろうが!!もう!信じられねぇ!!」
ぱっと手を放してそのまま勢いよく、そっぽを向く。赤くなった頬を擦りながら、それでも
神楽が少しづつ相手をしてくれる事に、榊は気をよくした。
「ねぇ?」
「んだよ!」
「教えてくれないか?何があった?」
神楽がもの凄い表情で榊を見上げて、何か言いかけてまた目を逸らした。
「………考えられねぇな…普通そういうこと聞くかよ?」
「確かに…自分でも呆れてる…」
つねられた頬を撫でながら、一歩だけ距離をつめた。真面目な顔で神楽を見つめる。
「…君と一緒に二階の部屋へ移動したことは思い出した」
さっき空瓶を片づけている時に、酒瓶を抱えて二人で階段を上がった事は思い出した。後の
メンバーは酔いつぶれて、ソファやフローリングの上に転がっていた後だった。でも肝心の
そこから後が思い出せない。思い出したいのはまさにそこだというのに。
「…でもそこから後が…思い出せないんだ…。本当、呆れてしまうな…」
「……そこを思い出さなきゃ、意味がないだろ…」
神楽があきらめを含んだ大きな溜息をついた。榊から顔をそむけたまま、思いつめた表情で
唇を結んでいたが、ぽつりと言葉を吐き出した。
「…私の口から言う気はないよ」
「そんな…。どうしてだ?」
「アンタなぁ!これでも私、女だぞ?そんなこと言えるかよ!?」
「…私も女だ」
「だったら聞くんじゃねーよ!」
「でも…君しか事を知らないんだし…」
「大バカッ!!」
これ以上はないというぐらい、力一杯神楽が断定した。顔が赤いのはこの場合は照れではない、
怒りのせいだ。
「だいたいアンタは無神経すぎるんだよ!ちょっとでも私に悪いと思ってるんなら、まずは
謝るのが先だろ!?」
「…私が悪いのか?」
榊が少しムッとした様子で問い返す。
「なっ」
神楽は、絶句してそれを受け止める。
「…覚えていないから、本当に私が悪かったのかどうか分からない。これで謝れと言われても
…その、困る」
表情を崩さないまま、ぬけぬけと不敵な態度で榊が言ってのける。
「…それに、いくら酔っていたからといっても私はイヤだと思う事はしない」
怒鳴りつけようとした神楽は、それを聞いて眉をひそめた。
「どういうことだよ?」
「言葉通りだ。酔ってたといっても、私は私だ」
今までの人生において、理由もなく本意じゃないことをしたことはないし、これからもする気は
ない。

 

 

928 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:32:55 ID:I686A4QP

 

どれだけ記憶をなくすまで酔っぱらっても(それは不本意だが)自分が嫌なことをする訳がないと
確信できる。
「だから私が君をその、…抱いてしまったんなら、そうしたかったんだと思う」
「……」
それを聞いた途端、神楽の顔がさらに赤くなった。だが今度のは怒りの為ではないようだった。
「…でも、忘れてしまったことは確かにすまなかった…」
神楽はほんのりと頬を染める榊をじっと見つめていたが、目が合うと顔を俯かせた。
榊は俯いたままの神楽をチラリと覗き込み、遠慮がちに尋ねた。
「…君は嫌だったのか?」
神楽はちょっとだけ顔を上げたが、すぐに伏せた。
「…え…まさか…無理やりしてしまったのか!?」
「そんなわけねーだろ!バカッ!」
今度は、はっきりと言い返してきた。
「もしそうだったら今頃あんたは病院行きになってるよ!!」
「…そうか」
「…ったく…そんな事、普通自分で聞くかよ…」
ブツブツ言う神楽の顔をじっと見つめたまま、榊は尋ねた。
「じゃあ、君も私でいいと思って……抱かれたのか?」
「!」
ハッと目を剥いた神楽の顔が、またもや紅潮していく。
「ななな何言ってんだ!」
「い、いや。…だって…そういう事に、なるだろ?」
デリカシーもへったくれもない言葉だが、神楽は顔を赤く染めたまま黙り込んだ。
その手は榊を殴りつけたいのか、自分の顔を覆いたいのか分からず、中途半端にぶらついている。
榊自身も何だか恥ずかしくなって、神楽から視線を逸らせた。一階から微かに人の話し声が聞こえ
てくる。
しばらく奇妙な沈黙が二人を包んでいたが、神楽はぼんやりと立ったままの榊を見上げてぽつりと
呟いた。

 

 

929 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:34:58 ID:I686A4QP

 

「…そういう意味なのか?」
「え?」
「…だから…その…そうしたかったって言うのはだな…その…私に…」
神楽は目を伏せたまま、もじもじと聞き難そうに言葉を探していた。
「?」
「〜〜だから………あ〜もう、ぶっちゃけて聞くけど!!」
「うん」
思い切り息を吸い込むと、それを吐き出すように聞き返した。

「私のこと好きなの?」

ぱっと、榊の目が見開いた。
神楽の言葉が耳から入ってきて、脳に到達されそれが理解されるまでに、耐え難いような空気が
互いの間を流れていった。

「………」

榊の頭の中で様々な言葉が渦巻いてはいたが、どれも神楽に対する感情を表すには何かが足りない
気がした。
結果、考えぬいた彼女が口にした言葉というのは次の一言だった。
「…分からない」

ぶちっ

細い糸のようなものが、ぷっつりと切れたような音がどこからか聞こえてきた。

「身体だけが目的だったのか!!」

不覚にも神楽が腰を沈めた動作が見えなかった。
思いっきり殺意が込められた廻し蹴りを、かろうじてかわすと、必死でベランダに繋がる部屋に
転がりこんだ。
「ま…待って!」
「サイテーだ!アンタ最低!!」
「そうじゃないんだ!落ち着いて私の話を聞いてくれ!!」
振り下ろされるカカトを、今度は逃げずにはしっと受け止めた。掌がびりびりと痺れる。掴まえて
しまえば明らかに榊の方が有利だったが、それでも必死になって訴えた。
「私はそういう感情を抱いた経験がないから、本当に分からないんだ!」
「…バカッ!!」
神楽は足を離すと、今度は尻餅をついている榊目がけて飛びかかった。お腹にドスンと体重を
かけられて榊は奇妙な声を上げ、力がゆるんだ所で神楽は素早くマウントを取る。
「…っ」
神楽がそのまま拳を振り上げたので、榊は目を瞑って覚悟を決めた。
しかし、しばらく待ってもなかなかそれは来ない。
「……?」

 

 

930 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:38:09 ID:I686A4QP

 

そっと目を開けてみた。神楽は拳を振り上げたまま動かない。
その顔は怒ってはいなかった。ただ泣く一歩手前のような表情で、唇を噛みしめて榊を見下ろして
いる。
胸の奥がズキッとなる。
ダメだ。これなら殴られた方がマシだ。
神楽のこんな顔を見るくらいなら、思いっきり叩かれる方がいい。ずっとマシだ。

「…もういいよ…」

神楽は静かに拳を下ろし立ち上がった。一度だけ目を閉じて、開いた時にはあきらめともつかない
静けさを含んでいた。
「…え?」
「たった一晩だけ、気持ちが盛り上がってやっちまった。そういう事だろ?…だったらもういい
じゃねぇか。忘れようぜ。所詮、酔っぱらった上での間違いだもんな」
「間違い?」
それを聞いて、思わず眉をひそめた。
「その言い方は…」
「そういうことにしてくれ」
きっぱりと言い放つと、神楽は正面から向き直った。
「榊はあんなにお酒飲んだのは初めてだったんだろ?それで酔っぱらったんなら、自制が利かなく
なるのも仕方ないよ。違うか?」
「……それは」
そう言われれば否定できない。確かにお酒なんてほとんど飲んだことはないし、酔っぱらったと
いう経験も今までになかった。
だがそれで今回の件を言い訳にしていいのか分からない。第一、何故そうなったのかが分からない
のだ。
「私だって不用心だったよ。女同士だっていうのに…もっとよく考えるべきだった。それに…」
「それに?」
「…」
神楽は押し黙ると、榊から顔をそむけ自分に言い聞かせるように呟いた。
「…私も酔っぱらっていたんだろうな。相手もアンタだったし…それでつい、うっかり気を許し
ちまったんだ」
「……」
「も、もういいだろ!この件は終わりだ!酒の席だし、こんな事もあるんだよきっと!」
「……いや、そんな事は…」
「うるさい!」
ぴしゃりと言い放つと、ふっともう一度息をついて言い直した。
「もうこの件で話すことはない。おしまい!」
そう断固として言い捨てると、自分が放り出した洗濯物を拾い上げて、ばさりと風にはためかせた。
何かを言いたかった。自分が伝えたかった事が伝わらなかった気がしたからだ。だがそう考えて
みると、何を自分は言いたかったのかが分からない。分からないが為に、黙って神楽の背中を見つ
めるしかなかった。
「…心配すんな」
神楽が背中を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「え?」
「こんな事になっちまったけどさ…ちゃんと元に戻るから…だから、今は放っておいて。
お願いだから行って」
その背中は寂しそうで立ち去りがたい気がした。だがそれ以上そこにいてもしょうがなく、榊は
後ろ髪を引かれながらもその場を立ち去ることにした。


 

 

931 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:40:30 ID:I686A4QP

 

「…ふう……」
榊は別荘から少し降りた所にある浜辺に座り込んでいた。
事態は彼女がもっとも苦手とする状態に陥っている。おまけに解決もされないまま、なかった事に
されてしまいそうだ。
神楽がそうしたいと言うなら、そうした方がいいのかもしれない。
自分だって面倒事は望むところではない。色恋沙汰なら尚更だ。自分には今獣医への道において
なすべき事があり、それに向けて邁進すべきなのだ。他の事に気を取られている場合ではない。
わかっている。
「…っ」
拳を強く握りしめた。

なかった事になんて出来る訳がないのだ。

自分の腕にはまだ神楽の感触が残っている。重さも、匂いも。自分に向けた美しい笑顔も。
その時は間違いなく手の中にあったのに、今や完全に失おうとしている。
忘れたことは仕方がない。だが覚えていることまでなかった事には出来ない。
だが自分はどうやら致命的なミスをしてしまったらしい。
怒っている間はまだよかった。だが、今となっては――。
「…う〜〜〜ん……。あー、いい天気だ…。ちょっと昼寝でもしたい気分だな…」
背後からその声と一緒に誰かが砂浜を歩いてきたので、榊は気だるそうに振り向いた。

 

 

932 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:43:22 ID:I686A4QP

 

額に熱冷ましのシップを張りつけたままの暦が、榊を見下ろして笑っていた。
「こんな所で青春か?お前らしい」
「…そんなんじゃない」
短く言葉を返すと、榊は再び海の方へ視線を戻した。暦が隣で腰を着ける。
「…ここで昼寝するつもりか?」
「あのなぁ、そうしたいのは山々だけど、生憎そんな暇はねぇんだよ…昼飯何にするか考えないと
いけないんだ」
「…そうか、今度は私も手伝う。…すまないが用がないなら、今は一人にして欲しいんだ…」
「そう邪険にすんなって。悩んでるんだよ…ちよちゃんは可哀想に食欲がないって寝ちゃったし、
智は腹減ったってうるせぇし…」
ふーっと長い溜息を空に向かって吐き出した。雲一つない青い空の彼方に、飛行機が飛んでいく
のが見えた。
「神楽も、いらないって言うしなー。どうしようかな」
「神楽?」
思わずビクッと反応してしまう。
「…神楽がどうしたんだ…」
「いやー珍しく食欲もないみたいでさ。それで私が何か食べたいモンないか?って聞きに行ったら
私はいらないって言うんだ。あぁ、ちょうど洗濯してたんだけど」
「……うん、今干していた」
「新鮮だよなー、神楽が洗濯してるなんてよ。あいつも大学生になってから家事なんてやってるの
かねぇ。まぁ、でも洗濯してる姿はなかなか様になってたよ。考えてみりゃ、私達の中で一番女
らしいのって、案外神楽なのかも知れないなぁ」
神楽について何か知っているのかと思い真剣に暦の話を聞いていた榊だが、どうでもいいような事
を淡々と話し続けるのに呆れて黙って腰を上げた。だが、暦はそんな榊に構わず、自分の話を続け
出す。
「しかしいくら今日がこんなに晴れてるからってなぁ、何も別荘に来てすぐ次の日にシーツを
洗わなくてもいいと思うんだけどなぁ。ちよちゃん家の事だから、定期的に手入れはしてあるみた
いだし、ベッドだってキレイなもんだったろ?なのに、あいつ何時からそんな神経質になったんだ。
なぁ…お前はどう思う?」
榊の足が止まった。

 

 

933 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/05/31(水) 09:46:52 ID:I686A4QP

 

「え?」
「『え?』じゃねぇよ。しかもだ。私が覗いたら慌ててシーツを洗濯機の中に隠す始末だぞ。
まったく…いったいどんなヨゴレがついてたのか気になっちまうよな。そういうのお前どう
思う?」
暦の様子はいつもと変わらない。眼鏡を外すと、布きんを持った手で榊を指した。
「…そんなこと…どうでもいい…」
「どうでもいい事ないだろ。明らかにおかしいだろ。私は神楽が心配なんだよ。ましてやどっかの
何考えてるのか分からねぇ完璧超人ちゃんと、何かあったんじゃないかってな翌日には特にな」
榊は流石に少し愕然とした気持ちで、正面から暦を見つめ返した。
暦は口元だけはニコニコとしているが、眼鏡の奥に見える目はちっとも笑ってはいなかった。
長い沈黙が互いの間に横たわった。
「…なにを、言いたいんだ?」
「ほう。そうくるか」
「…君が何を言ってるのか分からないんだ」
「神楽の洗ってたシーツな。赤い染みがついてたぞ」
それを聞いた途端、榊はギョッとして振り返った。
「ウソだ!!」
「ウソだよ。バーカ」
暦は冷たく笑うと立ち上がり、唖然としている榊の肩にポンと手を置いた。
「さぁて、昼までにはたっぷりと時間はあるし……。お前がどうしてもってんなら、相談に乗って
あげてもいいぜ?何気にすんなって、私と榊の仲だろ?」
そう耳元で意地悪く囁かれ、榊は今朝から何度目かの盛大な溜息をついた。
やれやれ。

(続)
 

951 名前:最後の勝負に手にするものは(四話)[sage] :2006/06/02(金) 00:47:02 ID:sddQ+Gjo

 

「…榊、正直に言わせてもらっていいか?」
「…何だ?」
「お前バカなんじゃねぇのかっ!?」
「………」
榊は憮然とした顔つきで、台所付近の椅子の上に座り込んでいた。ちょうどテーブルの角を
はさむようにして暦が座り、信じられないといった風に首を振っている。
今朝の話をするにつれ、暦は最初驚愕で身を乗りだしていたが次第に唖然とし、最後は呆れ
かえってわめきだした。
「考えられねぇ!忘れるかフツウ?前々から浮世離れしたところがあると思ってたけど、お前の
頭の中って何が詰まってるんだ?ネジでも緩んでんじゃねーのか!?だいたい聞くにしても
もう少し言い方があるだろーがっ!?バカなんてもんじゃねぇーよっ!ヴァカだ!ヴァカッ!
V・A・K・A・ヴァカだッ!!」
「………」
「ったくよぉ…神楽がかわいそうだよ!自分のライバルだと認めてた同性の女に身を任せる
なんて…一夜の間違いにしても全然笑えない話だぜ!私はなぁ、お前を親友だと思ってたし、
結構尊敬してたんだけど…あ〜〜〜、もうマジで誰も信じられなくなりそうだ!!」
まったく言いたい放題である。
榊にしてみれば暦の言う事や態度は、自分でもかなり痛感していた事だけに耳が痛い上、一方
ではいちいち芝居じみているので彼女が何処まで本気なのかが判らない。だが、暦は暦なりに衝撃
を受けているようであった。
その内、はぁーーと深い溜息をつくと椅子に座り直し、榊と向き合った。
「だいたいなぁ…ヤッちまったのを忘れるのも最悪だけどよ。『何があった?』なんて聞くなんて
のは言語道断だぞ?」
「…そうなのか」
「当たり前だろ!ったくお前も女だっていうのに…。だいたい状況見れば分かる事だろ?」
「だけど…それならどうすればよかったんだ?」
「え?………そ、そりゃやっぱ、あれじゃねぇか…。あ…髪でも背中でも撫でながら『夜の君は
情熱的だけど朝の君はなんてあどけなく愛らしいんだ…こうやって二人で朝を迎える幸せが来る
なんて夢のようだよ』ぐらい呟いて、額にキスでもしてあげるもんなんじゃないのか」
「で、でででででできないよ!」
自分がそんな事するなんて、想像しただけで……いや、これはこれでありなのかも知れない。
にしても、ちょっとキザすぎないか?

 

 

952 名前:最後の勝負に手にするものは(四話)[sage] :2006/06/02(金) 00:50:00 ID:sddQ+Gjo

 

「それぐらい言えよ!絶対神楽のヤツ、喜んでたと思うぞ?」
「…それは、どっちかというと君がされてみたいんじゃないのか?」
「ち、ちげーよ!これは前に読んだ小説に書いて……はっ!」
「…何の小説だ」
「………」
「……まぁ、いい。でも、結局君も経験ないから分からないんじゃないか」
同類を見るような榊の視線に、顔を真っ赤にして黙り込んだ暦だが、すぐに立ち直ってテーブルを
バンバンと叩いた。
「私の話はどうだっていいだろ!?それより神楽だ!どうするんだ!」
「どうするって…?」
「だから!」
暦はぐいっと身体を乗り出すと、真剣な眼をして榊を指した。
「いいか。神楽にその気がないならそのまま手を引け。これ以上話を蒸し返すな」
「……どういう事だ?」
「だからただ単に忘れた夜が気になるからってだけで、神楽を突くのはナンセンスだぞ。それで
思い出したからってお前はスッキリして終わりかもしれないが神楽はどうなる?」
「……」
「……いいか。これはひょっとしてだぞ?いや、結構あり得る気もするんだが、それはそれで問題
なんだよな…う〜ん」
「…先を言ってくれ」
暦はコホンと咳払いして、顔を赤くしながら小さな声で尋ねた。
「……例えば神楽が…お前を好きだとして…」
「……」
「だから!例えばだ!!そんな真っ赤な顔して照れんなよ!」
「わ、分かってる。それで何なんだ?」
「………もしそうならよけい可哀想だろうが。貞操奪われた相手にその事忘れられて、さんざん
振り回された挙句に、またいつも通り友達でいようだなんて…。それなら、これ以上は事を荒立て
ずにそっとしておいてだな…」
ポンと、暦は真顔のままで榊の肩に手を置いた。
「これからはなるべく、神楽と二人きりで会わないようにしろ」
「それは……イヤだ」
榊はすっと横を向いた。
「君の言う事はよく分かる。それでも…それだけは絶対に…」
「じゃ、どーしたいんだ!だいたいお前神楽の事どう思ってんだ!友達としての意味じゃなく、
マジで好きなのか?」
「…え?」
榊は急に居心地が悪くなったような気がした。何となくギクシャクと暦を振り返る。

 

 

953 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 00:51:28 ID:sddQ+Gjo

 

「…そうなのか?」
暦が意外そうに眼鏡の奥の両目を見開いている。口が開いたままになっているのにも気づかない。
「………わからない……」
「はぁ?なんだそりゃ!わからない訳ないだろ!」
「考えたことがないし…」
「じゃあ今考えろ!!アホッ!たまには他人の事に脳を使ってみたらどうだ!!」
暦はそう怒鳴ると、何で私がこんな事をとかぶつぶつ言いながら口をとがらして悪態をついた。
榊はテーブルに肩肘をついて頭を支え、溜息をつく。特大の奴だ。
自分がどうしたいかと言う事で、これほど追いつめられた事はない。例え望んでいてもできそうに
ないと思った事は、胸に秘めて我慢したり、妄想で補ったりと、そういう風にして自分は割りと
好きなように歩いてきた。
そんな自分が神楽を抱いたというなら、それはその時の自分の本意だったのだろう。自分にだって
欲求はある。きっかけ次第では、何か事を起こしたかもしれない。だが今まで自分には身体を重ね
た経験などはなかった。
昨夜は酔いがきっかけで抱いたのかと聞かれれば、それは違うと思う。いくら泥酔していたとして
も、それだけで大事な友人である神楽を手に出すなんて、自分はしないと断言できる。
友人以上の感情を神楽に感じた事はない。いや、正確には考えた事もない。それは当然だろう。
何せ相手は同性なのである。
初めて「女」(ここでは性の対象という意味である)として意識したのは、実は今朝の神楽を見て
からだ。それから自分は何処かおかしくなってしまったようだ。
あの笑顔が残像となって頭から離れない。そして先程の少し泣きそうな表情。向けられた背中。
何かが喉の奥に引っかかっている。それを吐き出してしまうか、それともいつものように自分の
中に仕舞い込んでしまうか。そんな事でもやもやしている自分自身にも気分が悪い。いっそ忘れ
たい。だが忘れる事もできそうにない。


 

 

954 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 00:54:00 ID:sddQ+Gjo

 

すっかり黙り込んでしまった榊に、暦は呆れ果てて首を横に振った。
「そんなに考えることかねぇ…だいたい感情で動くもんだろ?わからない奴だ…ハートが鉄で
出来てるのか」
そんなブツブツ言う声も、榊には届いてないようだった。
昼前なのにすっかり暗い気分で満たされた食堂に、騒々しい音を立てながら智が入ってきた。
「やっと見つけた!よみ!お腹減った!昼飯!」
「…まだ早いだろ…」
「朝飯があれっぽっちで足りるかってーのよ!」
空腹の智は、がおーっと吼えた。その後ろからちよが入ってきた。
「あれ?ちよちゃん、もう動いて大丈夫なの?」
「よみさん…ご心配おかけしてすいませんでした。榊さんも…。もう大分楽になりましたので」
そう言いながら、ペコリと小さな頭を下げる。
「そう?でもまだ顔色悪いみたいだから無理しないでね」
「はい。…あの、水もらっていいですか?大阪さんに持っていってあげようと思いまして…」
「なんだ、あのバカまだ動けないのか…ちょっと待ってて」
暦は慌てて身体を起こすと、台所に入っていった。その後をちよがトコトコと続く。
「じゃあ大阪に水持ってったらメシッ!」
「ウルセェっての…ったく、それどころじゃないんだぞ智…」
冷蔵庫から冷たい水を取り出すと、それをコップに注ぎながら暦がぼやいた。
「ん?なになに?何かあったの?」
「……あ、あの、何でもな…」
榊が気づいて止めようとしたが、遅かった。
「私らが撃沈してる間に、榊が神楽を手込めにしちまっ………あ」
暦が我に返って、口を手で押さえた。


沈黙


「えぇーーー!?て、手込めーー!!」
目をパチクリさせて驚く智の横で、ちよがキョトンと首を傾げる。
「カゴメ?」
「いや、手込めだちよすけ!!」
「あぁ、テゴメですか………え?何ですかそれ?」
「…とにかく驚いとけばいいんだよ!!にしても、ビックリした〜!!」
ちよの言葉を適当に流して、智が驚愕の眼差しで榊を見つめてくる。頭が痛くなってきた。
暦が申し訳なさそうに近づいて謝ってくる。

 

 

955 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 00:55:08 ID:sddQ+Gjo

 

「…すまねぇ、榊。口が滑っちまった…」
「……いや、気にしなくていい。もとは私が悪いんだ…」
「ちょっとちょっと!何をコソコソ二人で話してんの!?」
智が目を輝かせながら二人の間に割って入ってきた。
「それにしても…スゴイ!榊ちゃん!!大胆だね〜!まぁ、あのバカには榊ちゃんはちょっと
勿体無い気がするけど…そうね。あれくらいのバカには、榊ちゃんみたいなしっかりした人が
付いてちょうどいいのかも!うん!お似合いじゃん!応援するよ!!」
本人が聞いたらその場でぶん殴られそうなことを言いながら、智は一人で納得したように頷いて
いる。
「……お前はそういう反応しか出来ないのか?……はぁ…ったく私としたことが迂闊だったぜ…」
頬にベシッと手を当てて、暦は深い溜息をついた。
「でも何で榊ちゃん、元気ないの?」
「…私も酔っ払っていて、その事を覚えてないんだ…」
「お、おいおい榊。そんな事まで話していいのか?」
「えぇーーー!!サイテーーー!!」
「…う」
案の定ギャーギャーとわめき出した智により、榊の頭痛は一段と痛みを増した。ここまで来たら
智にも相談しようと打ち明けたのだが、やはり失敗だったのかもしれない。
「あの、手込めって何ですか?」
ちよは暦から貰ったコップをお盆に乗せて、不思議そうに暦を見上げた。
「おっと、その前にちよちゃんは大阪にお水を渡して来てもらえるかな?大人の話はその後で
ね?」
「…?はい、わかりました」
割と素直に頷くと、そのまま急いで部屋を出た。
智が話を聞きだそうと、榊の隣に寄せた椅子に座ってくる。その顔は明らかにワクワクしていた。
「ねぇ、どうなの?ちょっと詳しく話してよ」
「…詳しくと言われても…」
「コラ、智。お前はもう少しシリアスになれよ。神楽はそれで傷ついてんだぞ」
「……うぅ」
榊は俯くと、大きな溜息をついた。

 

 

956 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 00:58:23 ID:sddQ+Gjo

 

「はぁ…」
「おっ。どうしたのよ榊ちゃん」
「なんか煮詰まってるらしいぞ」
頭から煙を噴きそうになっている榊を、暦は冷たく見下ろした。
「どうしてよ?」
「自分が神楽を好きかどうかわからないんだと」
「はぁ?どういうこと?」
「さあな。何で、んな事で頭を悩ませているのかもわからねぇな」
暦は肩をすくめると、コーヒーでも飲もうとヤカンに水を足し始めた。
「悩まなくてもいいじゃん。榊ちゃんは神楽が好きなんだから」
けろりと智が答え、榊は思わず顔を上げた。
「え?」
「…またお前は簡単に答えるよ…どうせ友達だからとかそんなんだろ?」
暦が面白くなさそうに言葉を返す。
「あれ、違うの?」
「…友達ってだけじゃ抱けないだろ…」
「でも好きの根っこは同じだろ?」
ね?という顔で榊を振り返る。
「好きの根っこ…」
「なんでそんなので悩むのよ?だいたい好きじゃなきゃ抱かないでしょ」
「……うん…そうだな…」
智の言葉は簡単だ。簡単だからこそ耳にもよく飛び込んでくる。
「神楽だってそうだろ?何とも思ってない奴に抱かれる訳ないじゃない。榊ちゃんだからいい
と思ったんでしょ」
暦が台所でヤカンをひっくり返しそうになった。
榊は思わず、真正面から智を覗き込んだ。
「……そうだと私も思う」
「でしょ」
「…オマエら、いい加減にしろよ…」
暦がまたちょっとキレそうになっている。智は手だけでどうどうとたしなめた。

 

 

957 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 01:01:07 ID:sddQ+Gjo

 

「でも…神楽は今怒っている」
「なんで?」
「…私が神楽との事を忘れたからだと思う…」
「聞けばいいじゃないの」
「教えないんだ」
「ふ〜ん。じゃ、しょうがないね。ほっとこ」
「軽いな、おい…」
暦が額に汗を垂らしながら智に突っ込んだ。
「だってあのバカが榊ちゃんにまで話そうとしないんだろー?しょうがないじゃんか?」
「まったくお前はなぁ、そんなに物事を簡単に済ませるなよ」
智と暦が話している間、榊は考えていた。
忘れた事は確かに怒っていた。だが最終的に突き放されたと感じたのは、別の事だったような
気がする。
「……神楽が私に聞いたんだ」
「なんて?」
「私のこと好きかって」
「エッ!!」
それを聞いて暦が呻いた。
「何て答えたの?」
「分からないって言った」
「お前本当にアホだろ」
暦が怒りを通り越して、崩れ落ちそうになっている。よろけて隣の食器棚に身体を支えた。綺麗に
並んだ高そうなお皿がカチャカチャと音を立てる。
「なんでだ?」
「だからそこまで聞かれてなんで……あぁーー!畜生ーー!私は言わないからなっ!」
暦はバリバリと頭を掻きむしるとそっぽを向いた。
榊はそんな暦に首を傾げていたが、構わずに話を続けた。
「その後から…もういいって言い出して…。この件はなかったことにしようとか言って…」
「ふーん…それで?」
「…いや…それで思ったのは…その時もっと別の事を言えばよかったんじゃないのかなって…」
「へぇ、何なんだろうね?」
「わからない」
「…そんなオマエらこそ、私にはわからん」
暦はうずくまって頭を抱えている。
そんな彼女を、榊と智は怪訝そうに眺めた。
「よみの奴はどうしちゃったの?」
「…多分、お昼に何を作るのか悩んでいるんだと思う」
「…そう見えるかよ」
暦がげんなりした顔で立ち上がろうとする。

 

 

958 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 01:04:27 ID:sddQ+Gjo

 

「しょうがないわね!よしっ!ここはひとつこの滝野智様が榊ちゃんのためにひと肌脱いで
あげる!なぁに心配しないで!所詮、相手は神楽なんだからここはいっちょ…」
その話の途中で、食堂のドアがバタンと開けられた。
入ってきた黒髪の少女を見て、鈍感すぎる二人との会話にいい加減疲れていた暦はホッと一息を
つく。
「大阪…もう起きて大丈夫なのか?少しは気分が良くなったみたいだな」
「ありがとな、よみちゃん。もう大丈夫や。…ちょっと失礼するで」
そう言うと、大阪はそそくさと台所に入っていった。そのままガチャガチャと騒々しい音が
したかと思うと、すぐに食堂に戻ってくる。
「……何やってんだ、お前」
帰ってきた彼女の姿を見て、一同は呆れた。
でかい鍋をヘルメットのように頭に被せており、右手にはオタマ、左手には鍋の蓋を握りしめて
いる。そのくせ、そんなひどく滑稽な格好をしている割に彼女の顔はいたって真剣で、いつもの
穏やかな微笑みは消え失せているのだ。
「お前…まだ酔ってんのか?寝ぼけてんのか?」
暦の問いかけに応じることなく、スリッパをペタペタと鳴らしながら歩いてきて榊の真後ろに
立つ。
「榊ちゃん…ここにおったんやな…」
「?…なにか用か?」
「そうや。あのな、ちょっと表に出てくれへん?」
そう言うと右手で握っているオタマをスーッと胸の辺りまで持ち上げた。

「返答次第では容赦はせぇへんから、覚悟してな」

目が完全に据わっている。身体全体に怒気がみなぎって、隠す必要さえ感じていないようだ。
こんな大阪は初めてである。

 

 

959 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 01:08:00 ID:sddQ+Gjo

 

三人の口がぽかんと開いた。
「……え、と…どういうことだ?」
「自分の胸に手をあててみたらどうや?……よくも…」
金色に輝くオタマが、グッと大阪の頭の上まで振り上げられる。
「神楽ちゃんを無理やり、手込めにするなんて許さへんで!!」
ビュンと風を切る勢いで飛んできたオタマをすんでの所でかわした。勢いがつきすぎて床にまで
当たりそうになっている。
「…何を!?」
「コラーーッ!大阪!!部屋の中で暴れんじゃねぇ!お前ら!外に出ろ外に!!」
「そんな…!!」
だが言うまでもなく榊は外に逃げた。ここにいては上手く避けきれない。
「待ちや〜!!」
その後を大阪が追っていく。室内は突風が吹き荒れたようになっていた。
「……ビックリしたぁ…大阪怖ぇぇじゃん…」
「まぁ、ああいうタイプはキレると手がつけられないってのがセオリーだからな」
智と暦はそれを見送った後、落ち着いた様子でつっ立っている。どうやら止める気がないらしい。
「榊ちゃん大丈夫かな?」
「相手が大阪だし、アイツの運動神経なら問題ないだろ」
「でも何で大阪は知ったんだ?」
「さぁー?…ん?」
暦は開け放たれた扉で、何者かがプルプルと震えているのを見つけた。

 

 

960 名前:最後の勝負に手にするものは[sage] :2006/06/02(金) 01:11:17 ID:sddQ+Gjo

 

「ちよちゃん、何やってるの?」
戸口の少女はビクッとなり、中をこっそりと覗き込んだ。
「……私…私、知らなかったんです…」
「何を?」
「………言っちゃいけないんだってこと…」
「……何があったのかな?」
もう答えは分かったような気がしたが、それでも一応暦は尋ねた。
「…大阪さんにお水をあげて…少しお話していて…神楽さんはどうしてるのかって聞かれました
から……」
「…聞かれたから?」
「……神楽さんなら榊さんに手込めにされたらしいです…って…私…どうしよう…?二人とも、
喧嘩になっちゃったのかな?」
目元がうる〜っとなってきた少女に、智と暦は盛大に溜息をついた。
「まぁ…しょうがないか…身から出た錆って事で…」
「あんまり気にするなちよちゃん。遅かれ早かれこうなる気はしてたからさ」
「え…えぇ〜?でも…」
「心配なら見に行く?」
智が椅子から立ち上がり、ポスッとちよの頭の上に手を置いた。
「は、はい!やっぱり止めさせないと!どんな理由だろうと、喧嘩はダメです!!」
ちよが弾かれたように飛び出していった。
「そうだな。あのバカ二人がはしゃぎ過ぎて怪我でもしないように見張っておかないとな」
「いや、大阪を止めてあげればいいじゃないのさ…まったく、それよりちょっと聞きたいんだけど」
智が振り返り、部屋から出て行こうとする暦に問いかけた。
「なんだ?」
「さっきの『私は教えない』ってなんなの?」
「…あぁ…アレか……ったく、オマエらもう少し女らしい心理を身に付けろよ…」
暦は下にずれてしまった眼鏡をかけ直した。
「女の子が『私の事好き』って聞くのはな。十中八九、相手に気がある時なんだよ…ったく、何で
私がこんな事を先に気づかないといけないんだ?」
やれやれと溜息をつく暦を、智は両手を後頭部に組んだまま興味深そうに見つめた。
「ふ〜ん…ね、よみ?」
「ん?」
「私のこと好き?」
「…ヴァーカ」
屈託のない笑顔で聞いてくる智に、暦は苦笑しながら足を速めた。

(続) 
 

31 名前:最後の勝負に手にするものは(五話)[sage]:2006/06/04(日) 18:35:12 ID:APdbv93O

 

私のこと好き?



酔っぱらいが集まった食堂は、呻き声と寝言で騒々しくて落ち着いて飲める環境ではなかった。
場所を変えようと言ったのはどっちだったか覚えてない。でも、二人だけでゆっくりと飲みたい
と言ったのは神楽自身だった。なぜそんな事を言ったのか忘れたが、久しぶりに榊と会えたので
やはり嬉しかったのだと思う。部屋に入る前の事は所々意識が飛んでいる。榊と残り物の酒瓶を
全部手に持って二階に向かっている映像は、妙に頭に残っていた。自分は裸足で口につまみの袋
を咥えていて、少し浮かれていた。その足で踏む階段の湿った木材の感じとか、どうでもいい事を
覚えている。そんな事は普段だってよくあるのに、何故かその夜の時だけが、やたらリアルに思い
出せるのだ。どうでもいいけど。
しかし年頃の女達が揃いも揃って飲み比べなんてして酔い潰れてるわけだから、まったく色気の
ない光景だったと思う。ホント、おきらくな奴等だ。


 

 

32 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:38:06 ID:APdbv93O

 

次に覚えているのは二階にある小さな部屋の中で、自分は床の上で胡坐をかいて持ってきた赤
ワインの栓を、よいしょと抜こうとしている所だった。
榊は真向かいで行儀よく正座をして、二人の前にグラスを並べていた。
「…新しいのを開ける前に、飲みかけのお酒から手をつけた方がいいんじゃないか?」
そう言って、赤ワインをこっちへ渡すように手を伸ばした。
「どうせ今夜の内に全部飲んじまうから一緒だろー?」
ケラケラと笑って赤ワインの栓を一気に引き抜いてやると、不機嫌な顔をして子供のように拗ねて
みせる。
「そんな顔すんなって!せっかく仕切り直すんだから、新しいお酒で飲みなおす方がいいじゃん」
即座に笑顔を返すと、困ったような顔をしていたがすぐに一息ついて、大人しくグラスを差し出し
ていた。その顔色も動きも別にいつも通りで、酔っぱらっている風には見えなかった。
二つのグラスに酒を注いで、赤ワインの入っているビンを自分の横にドスンと無造作に置いた。
改めて乾杯をして、二人だけの二次会が始まる。
その後はくだらない会話や馬鹿みたいな事で笑い合ったり、どうでもいい事で怒ってみせて困らせ
てみたりと、だらだらと時間を過ごした。
「しかし、本当にお酒が強いんだな神楽…」
会話の途中で、榊が呆れたようにそう言ったのは、用意した酒瓶があらかたなくなる頃だった。
「まーね、小さい頃から親父にちょくちょく貰ってたりしたし」
「…子供の頃からの飲酒は身体によくない」
「いやいや、そんな言うほど私も飲んでないって!ほら、親が美味しそうに飲んでるのを見てると
なんか飲んでみたくなっちまうじゃん。それで、つい…ね。まぁ、飲んで美味いと思ったことは
ないけどさぁ、お酒飲んだことで自分も大人になったって気になるんだよ…ふふ!今考えてみたら、
ガキだったよなぁ」
「……あぁ…それは少し分かるかも…」
「あ!一応言っておくけど、今だってそんなにお酒を飲んでるわけじゃなんだぞ?サークルの
打ち上げとか、そういう行事が無きゃ飲まないし。それに、参加したとしても私は大して飲まない
んだ」
「…そうなんだ」
「そう!だから、私が酒に強いっていうのはそういう体質ってことだよ」
「でも、それならもう無理して飲まなくてもいいんじゃないか?」
「今日は別だよ。…だって、せっかく榊と二人きりで飲めるんだからさー。なんか、嬉しいって
いうか楽しいっていうか…とにかく自分でもびっくりするくらい酒が進むんだよね」
「…そうか」
そっとグラスを自分の膝の上に置いて、榊は黙ってしまった。
妙な沈黙が降りて、神楽は小さく居心地が悪くなる。ひょっとして今の言葉を気にしてしまった
んだろうか。自分はただ純粋に思ったことを言っただけなのに。そこには深い意味なんてあるはず
はないのに。ううん、あってはならないんだ。

 

 

33 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:40:17 ID:APdbv93O

 

「べつに」
変な意味で言ったんじゃないぞ。と言おうとした瞬間。
優しい手つきですりすりと頭を撫でられた。
「よしよし」
「!?」
驚いて思わず逃げようとすると、ぐいっと引き寄せられてさらに頭をさらさらと撫で回される。
「ちょ、ちょっと!!何すんだよ!止めろって!」
「神楽、可愛い」
無遠慮な手だ。大きくて暖かくて、綺麗。神楽はじたばたともがいて、その拘束を何とか脱出した。
「バカー!もう髪の毛がくしゃくしゃになんだろ!」
「ふふ…君もやっぱりそういうの、気にするんだ」
榊はクスクス笑っている。神楽ですら初めて見る、少女のような無邪気な笑顔だ。
「気にするに決まってるだろ!私だって女なんだからな!そりゃ、お前に比べたら大した髪質
じゃないだろうけど…これでも一応手入れはしてるんだから」
「そんな事ない…。私は神楽の髪、好きだ…触り心地もとても良かったよ」
「…なな…!何言ってんだよ!……ばか」
「ふふ」
神楽が言い返しても、榊は気にする様子を見せずグラスに口をつけた。
「…もう、何なんだよいったい…」
溜息をついた神楽だったが、榊の手の感触が今頃になって甦ってきて何だか居心地が悪くなった。
部屋が急に狭く感じて、座っている位置もやたら近く感じる。伸ばせば手が届く距離だという事に、
今初めて気づいてしまった。
「どうした?」
「別に…少し眠いかなって」
「そうか、それならもう私達も寝ようか」
「…ちょっと待てよ!誰も飲み会まで止めようなんて言ってないだろ!それにこれで終わったら、
飲み比べは私が負けた事になるもんな!まだまだこれからだぞ、これから!」
「…君は本当に負けず嫌いだな」
「もちろん!たとえ遊びだって負けるつもりはねーぞ!!」
勝負勝負!と神楽は榊のグラスに酒をついで、自分にもつぐ。乾杯して一緒に杯を開けた。

 

 

 

35 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:44:08 ID:APdbv93O

 

「…ぷっはぁ…あー美味ぇ。気を許せる人と飲めるお酒って、こんなに美味いんだなー」
「……本当に、そう思ってくれてるのか?」
「なにがー?」
「私といると楽しいって…心を許せるって、そんな風に思えるの?」
神楽は正面から榊を見つめ返した。身体中を回っていた酔いの気配がだんだん収縮していき、
それにつれて頭がクリアになっていった。
「当たり前だろ。何を疑ってんだ?」
榊はコトリとグラスを床に置いて、神楽と向き直り目を下に伏せた。
「神楽は…とても明るくて優しくて、誰にでも好かれる。きっと、今だっているんだと思う…」
「……何が言いたいんだ?」
「…その、だから…それなら出会いも多いわけだし…。他に一緒にいてとても楽しいと思える人
がいそうなものだし……何と言うか…つまり、だな…」
「……?」
「…君には今、特別に思える大事な人っているのか?」
「……それは」
「どうなんだ」
榊が覗き込むような目で、神楽を見つめてきた。
「……ったく、いきなりだなぁ」
そんな風に聞かれて、昔を振り返ってもそんな特別に人を好きになった記憶なんて思い出せそうに
ない。
自分はたいがい他人の口からそういう話を聞いたり、応援したり、あるいは相談をされて必死で
知ったような事を言ってみたりしていた。
「いないよ」
「いないの?」
「あぁ、私は今だってずっと水泳漬けだしな。空いた時間はバイトしてるし、そういう事考えてる
時間はないだろ?」
「……そうか」
「気になった?でも別にそれが寂しいと思った事はないよ。むしろそれでいいくらいに思ってる。
…そもそも私にそういう出会いがあるわけ……」
突然、四六時中それで頭がいっぱいになってしまったほど強く心を惹かれた人との出会いを思い出
して、眼が眩みそうになった。
「……いた……」
「え?」
「いるよ…しかも結構前から……」
それが初めてのことで、持て余す感情に戸惑いながらもがむしゃらに近づいていったのだ。
そうして話せるようになった後は、ずっと浮かれていた。校内でも評判なくらい美人で頭がよくて
運動もできで、それなのに誰ともつるまない無口な一匹狼。そんな彼女が日毎に打ち解けてくれて、
自分の名前を呼んでくれて、意外な一面を見せてくれる喜びを心の奥底で噛みしめていた。

 

36 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:46:47 ID:APdbv93O

 

「そうか」
榊の声は優しかったが、表情はどこか寂しそうだった。ひょっとして、妬いてくれているのだろう
か?私の為に?まさか、そんな。
「……アンタがよく知ってる人だよ…」
神楽の頬は暖かく和らいだ。何だか少しおかしくて、泣きたかった。
「私が?…誰だろ…同じクラスだった人かな」
「バ・カ」
本気で首を傾げている榊を遠慮なく馬鹿にする。こーいう所で鈍いのは生まれつきなのだろうか。
「私の目の前にいるよ」
「……?……あ…」
「そう。榊、アンタだよ」
「ありがとう…でも、私をカウントに入れないで聞いたつもりだったんだけど…」
「そんな事言っても他にいねーんだからしょうがないだろ?…私の中ではさ、やっぱりアンタは
特別っていうか……上手く言葉にできないけど、すごく大事な人だと思ってる」
「…神楽」
「ま、アンタには初めから一目置いてあったんだけどね。かなり有名だったし、スポーツでは一年
の頃からほとんど負かされてたしな。…それに比べて榊はひでーよな。せっかく同じクラスになっ
て話しかけても、私の名前すら覚えてくれてない素っ気無さ。ライバルだって思ってただけに、
あれは結構ショックだったなぁ〜」
「…だって…」
「あはは。別に今は気にしてないって」
「…でもそれなら、もう少し会ってくれたらいいのに。電話はよくしてくれるのに、こうやって
顔を合わすのは最近少ないじゃないか。家だってそんなに離れていないのに…」
「……私だって、榊に会いたかったよ。でも、迷ってた」
「迷う?」
「…今、結構悩んでんだよな。自分の将来ってやつ…このまま水泳頑張ってマジでオリンピック
とか目指してみるか…それとも、黒沢先生のように体育教師になろうか…それ以外の道を探して
みるか、さ。まだまだ先の話なんだけど、私…今の内に決めておかねーと、どれも中途半端になっ
ちまいそうな気がしたから」
「それなら、なおの事会って…いや、電話でもいい。相談してくれれば…」
「ダメだダメだ!これは自分の問題!それに、ライバルの榊は獣医目指して頑張ってるんだから、
私だけ宙ぶらりんなんてカッコワリーじゃん!!」
「…自分だけで、解決できるのか?」
「当たり前だろ」
「これからもそうやって、一人で乗り切っていくつもりなのか?」
「……それは…わかんねぇよ。…アンタ、さっきからちょっと変だぞ?」
「……」
「なんだよ?」
今二人はフローリングの上で向かい合わせになるように座っている。榊は背筋を伸ばして正座を
しており、神楽はいつものように胡坐をかいていた。
榊は黙って神楽を見つめている。
その視線に居心地の悪さを感じて、神楽はまたもや落ち着かない気分になった。

 

 

37 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:50:04 ID:APdbv93O

 

「なんなんだよ?言いたい事があるなら、さっさと…」
「変な人」
「なんだとぉ!?」
思わずきぃっとなった神楽にかまわず、榊はぽつぽつと言葉を続けた。
「明るくて、優しくて、真っ直ぐで、それなのに変に意地っ張りで他人に対してどこか素直に
なりきれない所があるし…」
「う、うるさいなぁ!そんな事いちいち言わなくったっていいだろ!!」
真っ赤になって身を乗り出し、榊の口を塞ごうとしたその腕を捕まれてぐいっと引っ張られた。
そのまま榊の腕の中にすっぽりと収まって身動きを封じられる。
「なにすんだよ!」
「……」
「放せ!」
「……あんまり無理しないで」
「…………え?」
「君は人に優しくすることはできても、頼ることを知らない」
耳元で低い声で呟かれる言葉は、いつもの榊の言葉とは思えなかった。
その時になって、自分がまるで抱きしめられるように、榊に抱え込まれている事に気づいた。
心臓がドクンと大きく鳴った。
「…だから、そんな事言うな…」
「言わせて…」
「なんでだよ…」
「無理して平気そうな顔して、隠れて一人で泣いてると思うとイヤだから」
「……別に…」
「キツイから…」
「……」
そのままさらに抱きしめられて、背中を撫でられる。首から頭に大きな掌がゆっくりと這わされた。
榊の胸は温かかった。あんまり気持ちが良すぎて、何だか泣きたい気分になるぐらい。そんな風に
撫でるのは止めてと言いたかった。そうじゃないと何かが崩れ落ちてしまいそうだった。

 

 

38 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:51:36 ID:APdbv93O

 

「榊……酔ってるんだろ…」
「酔ってない…」
「ウソ……」
「酔ってないよ……」
「酔ってなきゃ、こんなことしないだろ…」
「そんなことない……神楽、気持ちがいいし…」
耳元でうっとりとした声でそう呟かれて、また体温が上昇した。
なに?今なんて言ったんだ?
「やっぱり酔ってるぞ!」
「…酔ってないってば…」
首筋に息を感じた。柔らかい触れるような感触も。軽く触れる音も。
「さかき…」
自分の声が震えてしまうのが抑えきれなかった。触れている箇所が、ぽっと火が点いたように
熱くなる。
「気持ちいい…」
榊の声が信じられないぐらい甘い。こんな声をあの榊が出すことが信じられない。
「柔らかいし…いい匂いだ」
「……榊…ダメだよ……」
「神楽…」
耳朶を柔らかく噛まれて、神楽は声を上げそうになった。背筋をぞくぞくと快感が走り抜ける。
その背中もゆったりと大きな手が撫でていく。
「ダメッ…!ダメだ!」
これ以上は耐えられなくて、腕の中でもがいた。
怖い。この榊の声が。温かい胸が。大きな掌が。
何より「こうしていたい」と何処かで望んでいる自分が何より怖かった。
それにかまわず、榊は神楽をゆっくりと床に押し倒した。
こんな事が起こるはずがない!! 
 

40 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:55:05 ID:APdbv93O

 

「ちょ!ちょっとちょっと待って!」
「待たない」
「榊ってば!」
それ以上は何が起こるのかが怖くて必死で抵抗するが、榊は放してくれなかった。
「神楽」
名前を呼ばれて思わず目が合った。覗き込んでくるような瞳から熱を感じて、魅入られるように
動きが止まった。
顔がゆっくりと降りてくる。ダメだっ!あぁ、お酒飲んでいるのに!!
思わず息さえも止めて逃げようとした時、震える唇同士が触れ合った。
神楽の心臓はもはや早鐘のごとくで、手も足も身体もがちがちで感覚がない。ただ唇だけがリアル
だった。
深く押しつけられた唇が一度離れ、また触れ合った。今度は唇をちろりと舐められた。それだけで
電流を浴びたように身体が痺れる。
「神楽……」
「やだぁ……」
止めて。そんな声で呼ばないで。溶けてしまいそうだ。
また舐められて僅かに開いた唇から、温かい舌の侵入を許した。
「ん……」
自分でも予想せず甘い鼻息があがった。歯をなぞられて、さらに口を開けられて口内をゆっくりと
嬲られる。全身から徐々に力が抜けていく。
シャツの裾から榊の手が入ってきて、素肌を直接なぞられた。その気持ちよさに身体がうねりそう
になる。わずかに開いた両足に、榊が身体を割り込ませた。そこに熱を感じる。どうしようもなく
熱い。それが自分なのか榊のものなのか判らなかった。
溜息のように唇が離れた。至近距離で見つめ合った目は、どちらも潤んでみえた。

 

 

41 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:56:43 ID:APdbv93O

 

「ここじゃ痛いよね…」
ぽつりとそう呟くと、榊は神楽を両手で軽々と抱えた。そうされても、もう抵抗できなかった。
自分の膝が酒瓶にぶつかり、中身が床をピチャリと濡らしても榊はかまわなかった。そのまま
部屋にあったベッドの上に神楽を寝かせると、おっくうそうに自分のシャツを脱ぎ捨てた。美しい
ラインを描いた身体が部屋のライトに浮かび上がる。
神楽はもう抵抗する力がほとんど残ってなかった。だが榊が改めて自分の上に覆い被さって
きた時、彼女の背中に手を回す前に最後の理性を振り絞って聞いた。
「ねぇ…」
「なに…?」
「私のこと好きなの?」
今から自分と寝ようとしている相手に聞くには、あまりに馬鹿馬鹿しい言葉だと思う。
でも聞きたい。榊の口からその答えがどうしても。
榊は真っ直ぐに神楽の瞳を見つめ返した。
そしてその耳元に口を近づけ、短い言葉をぼそりと呟いた。
「……」
神楽は黙り、静かに目を閉じると榊の背中へゆっくりと手を回した。


 

 

42 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 18:58:28 ID:APdbv93O





雲が流れていく。
洗濯物は気持ちよさそうに風にはためいている。
神楽は二階の小部屋に寝っころがってそれを眺めていた。
高く上がった太陽が、洗濯物の間でちかちかと自分に降り注いでいる。
この分ならすぐ乾くだろう。
身体中がまだ痛い。昨夜は慣れない運動をした上に、さっき榊相手に大暴れしたからだ。
神楽はポケットから財布を取り出して、その中身を開く。
そこには一枚の写真が大事に飾られていた。
卒業式に撮った、榊と自分が楽しそうに笑っている写真。
あれだけ長く過ごしたはずなのに、二人きりで写っている写真はこの一枚だけだった。

「ばーか」

思わず口から出た言葉は、それと自覚して言った訳ではない。
その時の榊の顔が浮かんだ。その顔に向かって同じ事を言う。

「ばーーか」
でも一番馬鹿なのは、流されてしまった自分だ。
写真を見る視界がゆっくりとぼやけていく。
「ばーか…」

ばさばさとなびくシーツの影が、神楽を覆った。


43 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 19:01:17 ID:APdbv93O

 

やっぱり酔っていたのだ。榊も自分も。
自分一人が覚えていて、榊がすっかり忘れてしまった事には頭にくる。
でも、もうそれはいい。互いの熱を自分だけしか覚えていなくても、それはもういい。
悲しいのは、寂しいのは、昨日言ってくれた事が本当の榊の気持ちか分からない事だ。
今となっては、アレが本心なのか、酔った上での戯言なのか確かめようもない。
そして酔った上での言葉を信じるほど、神楽は楽天的ではなかった。
あの榊の言葉は真実だと一人で受け止められるほど、強くはなかった。

「結局…私が一番バカか…」

自嘲気味に笑うと、身体を起こし溜息をついた。
諦めないと。と自分に言い聞かせる。
少なくとも榊は友人として自分を大事に思ってくれているはずだ。もっと会いに来て欲しい
と言っていたから、そんな風に言葉をかけてくれるって事はそういう事だと思う。
酔ったはずみで、何処か制御がキレてしまったのだろう。ひょっとして自分が女だという事
にも、昨日初めて気づいたのかも。あぁ、榊ならありえそうだ…てんで鈍いんだから。
自分に言い聞かせる言葉は、どこか寂しくてやりきれない。
でも、自分を納得させる事には慣れている。大丈夫だ。乗り越えられる。
昨夜の事は自分の中に仕舞ってしまおう。これ以上おおごとにしたら、大事な友人も失って
しまう。
きっとそのうち、榊も何も言わなくなるだろう。
後は、時間が解決してくれる。
自分もいつか忘れてしまうかもしれない。きっとそれが一番いい。



 

 

44 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/04(日) 19:03:21 ID:APdbv93O

 

別荘の外が急に騒がしくなったのは、その時だった。
何か大声が聞こえる。怒ってるような女性の声だった。
「…大阪?」
ドタバタと走り回る音。女の声と、それに返す女の大声。歓喜のような複数の声。
「なにやってんだ?アイツらは…」
また誰かが大騒ぎをしてるに違いない。まさか喧嘩をするような奴等じゃないと思うのだが…。
ただ気になるのは、時々聞こえてくる鈍い衝撃のような音だ。その度に高くあがるのは、ちよ
ちゃんの悲鳴だろう。
「もう何なんだよ?いったい!」
やれやれと溜息をつくと、神楽はうずく腰をさすりながら騒ぎを止めるべく立ち上がった。

(続) 
 

81 名前:最後の勝負に手にするものは(六話)[sage]:2006/06/08(木) 19:57:59 ID:JFBisA4Y

 

「もう止めてくれ!」
「問答無用や!」

空気を切り裂き飛んできたおたまを危うくかわすが、その動きを読んでたかのように大阪は
身体を翻し、鍋の蓋を横殴りにぶつけてきた。それを手の甲でさばいて軌道をずらした途端に、
ちよの絶叫が響き渡った。
「大阪さーーん!止めてくださーーい!榊さんが本当に怪我してしまいますよ!」
「ちよちゃん!危ないから近寄ったらダメだッ!」
榊は必死で大阪の攻撃をかわしながら、外で逃げまわっていた。今の大阪は、これが高校の時の
あののんびりとした少女と同一人物かと疑うほど殺気がみなぎっている。攻撃が恐ろしく正確で
スピードがあった。
智と暦は観戦モードで、階段を客席代わりにしてあれやこれやと声をかけていた。その下で
ちよが、すっかりうろたえてバタバタと走り回っていた。
「どどどど、どうしましょうどうしましょう!どうしましょう〜〜!」
「なに騒いでるの、ちよちゃん」
「だって榊さんが、大阪さんに怪我をさせられちゃいますよー!」
「大丈夫だってちよちゃん。榊ちゃんも強いからそう簡単にやられないよ」
「アホ。だからって大阪がやられていい訳ないだろ」
「今の大阪だって強いから大丈夫!」
「…どっちなんだ、お前は…」
「あっはっは!二人とも〜〜!頑張ってー!」
「…そんな」
「ほら榊ちゃん、前見て前!」
「……智…お前あの二人の戦いを楽しんでるだろ…」
「うん!」
盛大な溜息をつくと、無責任な外野に榊は背を向けた。目の前には背中に怒りのオーラをしょった
大阪が、金色のおたまを右手で構えてじりじりと近寄りながら榊を睨みつけている。
必ず射程外にまで間を空けるようにしながら、榊はどうやって事態を打開しようかと頭を悩ませて
いた。

 

 

82 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:02:09 ID:JFBisA4Y

 

「おい榊!そろそろ反省したか?」
「…助けてくれるのか?」
「しょうがないな」
暦は最初相手は大阪だから大事にはいたらないだろうと、あえて黙って見ていた。
だが、想像以上に大阪の動きがキレている。このままでは流石の榊も危ないかもしれないと
心配になって止めに入ろうとしたら、大阪がそれはそれは冷たい視線を暦に向けた。
「よみちゃん。止めたいの?」
「……」
ごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。途端に大阪に向かって腕を振り上げて応援しだす。
「大阪ー!ファイトー!」
「えぇっ!!」
榊が突っ込むまもなく、大阪の攻撃が飛んできた。
「よそみっ!」
飛んできた鍋の蓋をウェービングでかわすと、それは暦の頬をかすめて後ろのドアに激突した。
鈍い衝撃音と共に鍋の蓋がへしゃげて落ちる。
「ギャーー!榊よけるなーーー!」
「そんな無理を言わないでくれ!!」
「お!スゴイスゴイ!榊ちゃんが必死で逃げてる」
「榊!いつまでもこんな事してないで、早く終わらせてくれ!ちよちゃんまで巻き込まれたら
大変だろう」
「それは私じゃなくて、相手に言ってくれ!」
「言いたい事があるんは、神楽ちゃんの方やろ!?」
怒気をはらんだ声音に、思わずたじろいだ。
「なっ…」
「…女の子の貞淑を奪っておいてそれを忘れるんやなんて…ましてや神楽ちゃんを!
私は絶対に許さへん!」
「……いや…だからそれは…」
「そうだそうだー!酷いぞー!」
「思い出せ榊ー」
「それができるなら、苦労はしてない!」
(困った事になった)
このまま大阪が疲れるまで逃げ切ろうかとも思ったが、その頃には太陽が沈んでいそうだ。
だからといって大人しく殴られる気もない。
しかし神楽の事で怒っている大阪に、力づくで攻撃を止めさせるのも気が引ける。もし取っ組み
合いになってケガでもさせてしまったら、今度は神楽が自分に怒りの鉄槌をくれに来るだろう。
(そうなるくらいなら、今殴られてしまった方がいい。だけど神楽以外に殴られるのも違う気が…)
どうするかと流石に頭が痛くなってきた時、女の声が響き渡った。
「何やってんだお前ら!」


 

 

83 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:04:30 ID:JFBisA4Y





階段に座っていた智と暦も。
ぐるぐる走り回っていたちよも。
今まさにおたまを振り下ろそうとした大阪も。
そしてそれをかわす体勢に入っていた榊も。
皆がいっせいに動きを止めて、階段の上を振り仰いだ。
すっかり高く上がった太陽の光の下で、神楽があきれたような顔で彼女らを見下ろしている。
「いったい何をやってるんだ?久しぶりに会っておいて喧嘩でもやらかしてるのか!?」
鋭い声を浴びせると、そのままずんずんと階段を降りてくる。座り込んで無責任に野次を飛ばして
いた智と暦は、慌てて立ち上がって神楽に道を開けた。
大阪が、そんな神楽の元へ走り寄っていって肩を抱きしめる。
「神楽ちゃん!大丈夫なん?」
「はぁ?なに言ってんだよ。お前こそ、さっきまで二日酔いで気分悪くしてたじゃねぇか」
「あっ…それはもう大丈夫や。さっきちよちゃんと話してて、…一気に痛みが引いたから」
「そうなのか?それで良くなったと思ったら、この騒ぎかよ?」
「これは…」
まだ気持ちが収まってない大阪だったが、神楽の後ろで暦が必死に首を横に振っているのを見て
口ごもった。
「大阪?」
「……何でもないねん。ちょっと運動不足やったから、榊ちゃんとプロレスごっこを…」
「…それにしちゃ、随分とマジ切れのようだったけど?それにその格好は一体…」
「そ、そりゃあ本気にならないと、榊相手じゃキツイだろ?」
暦が後ろから助け船を出す。大阪も大げさに頷いた。
「ほら。ずっと部屋の中に篭ってるのもストレスが溜まっちゃうし、榊相手なら大阪がいくら攻撃
しても、ひょいひょいかわしてくれるから」
「だからって物なんて投げて、ちよちゃんの別荘を傷つけてんじゃねぇか」
「大丈夫や!次は当てるで!」
(もういい加減に、あきらめてくれ…)
握り拳で決意を強くしている大阪に心の中で溜息をついて、榊は神楽を窺った。
仲裁役の登場に助かったと思ったのは最初だけで、今はさっきよりいたたまれない気持ちになって
いる。
神楽が、自分と全く目を合わせてくれないのだ。
何度か合いそうになると、故意にそらしているような気がする。いや気がするだけではなく、
実際にそうしている。

84 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:05:49 ID:JFBisA4Y

 

「ダメだぞ!これ以上ちよちゃんの別荘で乱闘は禁止!お前らも、見てないで止めろよな!
よみまで一緒になりやがって」
「わ、悪い…」
罰が悪そうにしょぼくれてる暦の側で、智が頭の後ろで腕を組みながら呑気に告げた。

「そんなに怒るなよ神楽。大阪だって、お前の為に怒ってるんだからさ」

すかさず暦が智を蹴倒したが、遅かった。
「…どういう意味?」
神楽はいぶかしそうな眼を、大阪に向けた。
大阪はその視線を受けて黙り込んだが…すぐにキッと顔を上げて神楽を真っ直ぐに見つめ返した。
「だって榊ちゃんは酷いやん!」
「…なんで?」
「……言えへん。でも女として許せへんよ」
「ちょっと待って!」
神楽がぴしゃりと手で制した。榊に向けかけた視線を返して、他の友人達に注ぐ。それから、
ゆっくりと大阪に戻した。
「なんで知ってるんだ?」
「……」
大阪は俯いて黙り込んでしまった。唇をギュッと噛んでいる。
その時、先程からずっとあわあわしていたちよが、耐えられずに神楽の腰にしがみついた。

 

 

85 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:08:04 ID:JFBisA4Y

 

「違うんです!神楽さん!大阪さんが悪いんじゃないんです!私が大阪さんに、『神楽さんが
榊さんにテゴメにされました』って言ったのが悪いんですよーー!!」
わーん!とそのまま泣き崩れる。だがやはり疑問だったらしく、大粒の涙を浮かべた瞳を見上げて
誰にともなく尋ねた。
「ところで『テゴメ』ってなんなんですか?」
あいにくそれに答えてくる人間は誰もいなかった。
太陽の光がさんさんと降り注ぐ中、別荘は一段と重たい空気に包まれ始めた。

「…なんでちよちゃんが、知っているの?」

腰にしがみついたままの少女に、神楽はゆっくりと視線を降ろした。
その冷気に産毛が反応したのか、ちよはひょぉっと神楽を見上げて固まっている。
「え、えっとあの、その、えーっと」
うわうわしているちよを見てあきらめたのか、暦は小さく手を挙げると自首をした。
「…ごめん、神楽…。ちよちゃんに教えたの私なんだ…」
途端に神楽の視線が、暦に向けられる。
「あ、あは。そんな冷たい視線を向けるなよ!眼鏡のレンズが砕けちまうだ…」
「砕ける前に言えよな。なんでよみが知ってるんだ?」
「私が話した」
榊の声が、別荘にやたら重く響いた。
今度は神楽はすぐには振り向かなかった。榊はその背中を見つめていた。
これで怒るならその方が良かった。むしろ怒れとさえ。
どんな罵倒でもののしりでも拳でも殺意でさえ構わない。何でもいい。感情をぶつけて欲しい。
逃げないで神楽!と心が無意識に叫んでいた。心の声なのに、その意味が自分でも判らない。
逃げるって何だ?私から?いや違う。
逃げないでくれ。終わらせないでくれ。そう強く願いながら、食い入るように神楽の背中を見つめ
ていた。



 

 

86 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:10:03 ID:JFBisA4Y

 

神楽は榊に背を向けたまま、他の連中を見渡した。誰も皆それぞれに心配そうな眼で自分を
見ている。智だけが、掴めない雰囲気で、のんびりと突っ立っていた。
「いや、私が聞いたんだよ榊に。それから他の皆に言っちゃったのは私で…」
「黙って」
さすがに気まずくなったらしい暦がフォローを入れようとしたが、神楽は即座に遮断した。
天を見上げて、溜息をつく。
やれやれだ。そんな口の軽い女だったのかな。
いや、あの榊なりに気になって心配して、それで相談したのかもしれない。
元々こんな狭い別荘で秘密もへったくれもあったもんじゃない。
だがこれ以上この話題で気を使われるのはゴメンだ。我慢できない。
青い空を見上げたまま神楽は一度眼を瞑り、見開いた。


終わりにしよう。


「ウソなんだ」
空を見上げたまま、神楽はなるたけはっきりと声に出した。自分にも言い聞かせるように。
「はぁ?」
「だからウソなんだよ。私の冗談。榊が私を襲ったなんて、そんな事あるわけないだろ」
キュッと口角を上げて笑ってみせると、神楽はぐるりと全員を見渡した。
「ちょっとさー、からかってみただけ。榊凄い酔っていたからさー。まぁ、でもここまで
引っかかってくれるとは思ってなかったよ」
そう茶目っ気たっぷりの明るい声で言うと、ケラケラと笑って見せた。


 

 

87 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:11:38 ID:JFBisA4Y

 

『ウソなんだ』
その声が聞こえた瞬間、胸がくしゃくしゃになるような痛みを覚えた。
神楽の声が急に遠く感じる。明るい笑い声も。
心臓が、どくんと大きく鳴った。
脳裏を、朝見た笑顔とさっき見た泣きそうな顔が何度も交差した。
さっきも耐えられないと思ったが、これはそれ以上だ。あんなのは比ではない。
ただ自分が神楽を失うだけじゃない。それ以上にこれはダメだ。これは――


「…ウソって…神楽ちゃん…」
驚いたような大阪と暦が、互いに顔を見合わせながら神楽に尋ねる。
それを神楽は、頬をぽりぽりと掻きながら笑った。
「ゴメンゴメン!まさかここまで大事になると思ってなくてさー!でも考えてみろよぉ、
だいたい私と榊が関係なんてするわけが…」
笑いながら見渡した時、智と眼が合いそうになった。
さっきまでヘラヘラと笑っていたのに、今は一変して心まで見通すような瞳で神楽を見つめて
いる。
思わず眼をそらした。責めているのでも悲しんでいるのでもない、真っ直ぐな瞳で怖かったのだ。

お願いだから何も言わないで智。勘づいても、せめて今だけでいいから聞かないで。
「…するわけがないだろう?まぁ、確かにちょっと冗談にしてはやりすぎたかもしれないけど…」


 

 

88 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:15:02 ID:JFBisA4Y

「ふざけるな」

重い声が神楽の後ろから響いた。当然来るだろうと思っていた声で、それを背中で受け止めながら
神楽は腹を括った。
榊は信じただろうか?ひょっとしたら、ぶっ飛ばされるかもしれない。
修復には時間がかかるかもしれない。出来ないかもしれない。
しょうがない。それでも徐々に腐っていくよりは、いっそ断ち切ってしまった方がいい。
重い足音が、ずしゃりずしゃりと響いてきて神楽の肩を掴んで後ろを向かせた。
大阪が何か言ったようだったが、それを聞く前に榊の声が降り落ちてきた。

「なんで……そんなデタラメを言う…」

ぎゅっと握りしめられた肩の痛みに耐えながら、神楽は榊を見上げるために気合を入れ直した。
「…悪かったよ。まさかアンタがそこまでムキになるなんて思わなくて…」
「なんで全部なかった事にして、ごまかすんだ!」
はっとなって、榊を見上げた。
見下ろしている榊は、怒りよりも何処か必死な哀しみを感じた。
「…違うって言ってるだろ…。だからアレは…」
「アレはウソなんかじゃなくて本当にあった事だろう!昨日私は君としたんじゃないか!
ごまかすなっ!」
「なに言ってんだよ!覚えてもない癖に偉そうにすんなよ!」
榊の勢いに乗せられるように、神楽も啖呵を切り返した。そんな自分に心の中で焦る。
そうじゃなくて、もっと冷静に終わらせるつもりだったのに。こんなムキになっては肯定してる
ようなものだよ。


89 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:18:10 ID:JFBisA4Y

榊もまた、閉じようとする扉を必死で押し戻すような感覚に焦りを感じていた。
喉の奥に引っかかったものは、今や一気に巨大化してしまい、これ以上お腹に留めたら死んで
しまいそうだった。
頭がガンガン鳴っている。これは警戒音だ。
今ここで神楽を引き留めなかったら、自分はこの人を失う以上の罪を犯す。

「来て」
「…っちょっと…何すんだよ!」
榊は神楽の腰に手を回すと、そのまま抱えるようにして浜辺へ向かってすたすたと歩き出した。
呆然と二人を見つめていた暦と大阪が、ギョッとなってその後を追う。
「待ってや!榊ちゃん!神楽ちゃんを、何処に連れて行くつもりなん!?」
「お、おい榊ッ!これ以上事を荒立たせたら…」
「ついてくるなっ!」
榊は振り返って大喝を落とす。その迫力に、二人の足が止まった。
「これは私と神楽の問題だ…。これ以上口を挟まないでくれ!」
「…はさむなって…お、おい!ちょっと!」
言うだけ言うと、神楽を抱えたまま榊は浜辺へと通ずる階段を降りていった。
「こら!降ろせよ!私はもうアンタに話なんか……!……」
暴れる神楽の声が、徐々に遠くなる。

90 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/08(木) 20:20:32 ID:JFBisA4Y

 

暦と大阪は唖然としたまま顔を見合わせ、いやそういう訳にもいかんだろうと後を追おうとした
途端…。
「智ちゃんターックル!」
「ひゃっ!」
「なっ、何すんだ智!」
「へっへー♪つーかまえた!」
智が後ろから二人に抱きつき、そのまま一緒くたに捉えている。先程と違い、楽しそうな笑顔が
浮かんでいた。
「ふざけてる場合じゃないで!智ちゃん!」
「そうだぞ智!大阪の言うとおりだぞ。あの口べたの鈍感榊が、また神楽を傷つけるかもしれない
だろーが!」
「大丈夫だって。榊ちゃん、分かってるから」
「だからっ!分かってないから心配なんじゃ…」
「分かってるって。榊ちゃんだもん」
納得の言っていない二人を見つめて、にっこりと笑った。
「それより腹が空いたなぁ。ねぇ、いい加減メシの支度をしようよ、よ〜み」

(最終話に続く)
 

97 名前:最後の勝負に手にするものは(最終話)[sage]:2006/06/10(土) 14:26:12 ID:F50yEepH

 

神楽の腰を抱えたまま引きずるように浜辺へと連れてくると、そこで榊はやっと手を放した。
突き飛ばすように神楽が離れ、自分の肩を抱くようにして榊を睨み付けた。
抱えられた腰が、じんと痺れている。たかがそれだけの事で敏感に反応している自分の身体に
嫌気がさした。
「なに考えてんだよ!?」
「そりゃ神楽の方だ!何故あんなウソをつく!」
「だから言ってるだろ!アンタをからかおうと思って…」
「やめて!」
グッと神楽の肩を掴んで、自分の方に身体を向けさせる。
「勝手に終わらせようとするな!」
「…終わるもなにも…始まってもいないんじゃ…」
「神楽!!」
その声に背中がびくんと震えた。
榊の声に悲痛さを感じたのだ。何故そんなものが?
そっと榊を見上げた。真剣な瞳が自分を見下ろしている。
「……お願い…」
「……?……」
「…止めてくれ……」
「……なにを…?」


さっきまでどうすれば関係が修復できるかと考えていた。
私はバカだ。それよりももっと気にしなければならない事があるのに。
神楽が自分自身に嘘をつこうとしている。
自分と二人で言い争っている間は、気づかなかった。
だが今、その互いの共有から自分をはじき飛ばし、神楽の中に深く押し込められ土をかけられ
ようとしている。二度と開かぬ墓のように。皆と出会うまで、他人から逃げ続けていたあの頃の
自分のように。


 

 

98 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:28:19 ID:F50yEepH

「そんな風に無理して…周りにもウソついて……平気そうな顔をしないで…」
「……え…?」


(無理して平気そうな顔して)


「それで隠れて…一人で泣くのか……そんな事は…イヤだ…我慢できない…」
「………!」


(隠れて一人で泣いていると思うとイヤだから)


「…榊……」

(思い出した?……ううん、違う…榊は…)

「それぐらいなら…君に殺される方がマシだ…」


99 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:30:03 ID:F50yEepH

耐えきれなくなって、榊はそのまま神楽を抱きしめていた。
柔らかい匂いが鼻腔を満たし、胸が一杯になる。
もう二度と抱きしめる事は叶わないのかと思うと、身体が辛い。
これほど自分は欲していたのか。この人を。

「自分の中に押し込めないで…普段はあんなに人懐っこいのに…本当に変な所で突っ張るんだ
から…。そんなの…見られたものじゃないよ……」
「……」



気づいてないんだろうか、榊は。
言い順は違うが、言っているのはほぼ自分に向かって言った言葉だ。
榊が「忘れた」と言った言葉だった。
自分が思い出して欲しいと願った言葉だった。



「…私を殴ろうが、罵倒しようが……憎もうが構わない…それは、もうしょうがない」
腕の中の神楽を深く抱きしめながら、ありったけの気持ちで言った。そうしないと神楽に気持ちが
届かないのではないかと不安だったのだ。
「だから頼むから、君が君自身を殺さないでくれ…それを見るのは…耐えられないんだ…」
「……………」
「お願い…」


100 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:31:59 ID:F50yEepH

身体の中に溜まっていた感情が、どんどん溢れていく。榊自身も気づかなかった想いが。
それがあまりに大きな感情だったので、存在に気づかずに寄りかかっていた。
本当は最初からそれはあった。そうだと知らずに抱き続けていた。
今やっと、その気持ちを何と呼んでいいのかが分かる。


『私のこと好き?』


「神楽が…好きなんだ…」



目の奥がじんわりと温かくなった。
自分の気持ちに、これほど揺さぶられる事があるとは思わなかった。



「すまなかった……」



101 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:33:13 ID:F50yEepH

空の青さを榊の肩越しに見上げていた。
優しい肩だった。温かい胸だった。
榊の言葉は神楽の耳から全身に行き渡り、指先まで温めていく。
失ったものが帰ってくる。


帰ってくる。


「あんたって…ホントむかつくよ……」


102 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:35:09 ID:F50yEepH

鈍感で、無愛想で、何考えてるのか分からない一匹狼。
天然すぎて許すしかないなんて、あんまりだろ?
「…ごめん…」
「本当にバカなんだから…」
言葉とは裏腹に、声は柔らかく榊の耳に響いた。
「……?」
「あんたのバカで昨日から振り回されっぱなしなんだぞ?どうしてくれるんだ?」
「……」
「しょうがないなぁ…」
ふふっ腕の中で神楽が笑った。くすぐったそうな笑い声だった。
「……神楽…?」
抱きしめていた腕をそっとゆるめて、神楽の顔を覗き込む。
そうしても神楽は逃げずに、榊の胸に頭をもたせていた。戸惑いながら見つめていると、
やがて静かに顔を上げてニッコリと笑った。
「しょうがないから許してやるよ」

(あっ…)

笑顔の内側からにじみ出るような光は、けして太陽が当たっているだけのものでは
なかった。
しょうがないという諦めも悪態も、優しく包まれて許されていた。
朝に咲いていた蕾が開花し、艶やかな花弁を伸ばして榊の前に咲き始める。
自分がそうしたとも思わず、榊は呆然と腕の中の神楽を見つめていた。

103 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:38:17 ID:F50yEepH

 

「……なんでだ…?」
「なにが?」
「……私、思い出していない」
「そうだな」
「そうだなって…怒ってないのか?」
「怒ってるよ」
「怒ってるようには見えないよ今は」
「そんな事ないぞー。あーあ、でも可哀想」
「…えっ?」
「せーっかく好きな私とHしたこと忘れるなんて」
「……」
「天然もそこまでいくと哀れだよなぁ」
「…か、神楽…」
「榊とっても素敵だったんだけどなぁ。ちょっと痛かったけど」
ぼっと、榊の顔が火が点いたように赤くなった。
神楽はそれにかまわず、榊の胸に頬をうずめて楽しむように手を滑らせた。
「なっ…なにを…!」
「でも、しばらくお預けだよ。筋肉痛で身体痛いし」
「えっ!?」
がばっと神楽の肩を掴んで見上げさせた。

 

 

104 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:44:06 ID:F50yEepH

 

「ちょっと待って!どういう事だ!」
「おいおい!強請ってもダメだぞ!無理して泳げなくなったら困るんだからな!」
「違う!…そうじゃなくて…いいのか?」
「ん?」
「だから…許すっていうのは…いいって事なの?………私としても…?」
「…アンタやっぱり身体目的なんだ…」
「!!…違う!そうじゃない!それは…その、欲しいけど君が嫌ならこの先ずっと手は…」
慌てて言い直そうとした榊の首に神楽が両手を回し、顔を引き寄せた。
唇に花びらのような柔らかい感触が当たる。
「……これが私の気持ちだよ。私だって、榊のこと好き。だから、してもいいんだぞ」
触れるだけの口づけが離れ、神楽が穏やかに微笑んだ。頬が僅かに赤くなって、
少し照れている。
潤んだ瞳も、艶のある唇も、何もかも全てが美しかった。
「……嬉しい…」
背伸びしている身体を支えるように抱きしめる。
「もう二度と…神楽を放したりしないから…」
「…榊。今度こそ信じるからな」
「うん」
不意に神楽の瞳から、一筋の涙が零れた。そして安心したように静かに瞼を閉じる。
「…よかった…私、榊を好きになって…」
「神楽…」
榊は優しく微笑むと、神楽の涙を親指でそっと拭ってやった。
「ね…?榊?」
神楽は目を開けると、榊に向かってあの柔らかな笑顔を向ける。
「なに?」
「これからもずっと…私のそばにいて?」
「うん。ずっと一緒にいよう」


 

 

105 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:47:51 ID:F50yEepH

その身体を抱きしめて、今度は榊から深く口づけを重ねた。
うっとりとした吐息が互いの唇から漏れて、溶けていく。
なぜ神楽が自分を許す気になったのか、未だ分からない。
昨日の事も出来るなら思い出したい。
でも、腕の中の神楽が幸せそうにしているのを見たら、どうでもよくなってきた。
神楽が笑ってるならそれでいい。
それを自分が与えている事に安堵しながら、お互いの舌が与える快楽に次第にのめり込んでいった。





106 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:50:11 ID:F50yEepH

 

「なー?私の言ったとおりだろ?」
「……まぁ、二人が結ばれて幸せっていうなら私も嬉しいけどさ。なーんかいまいち納得いかない
気もすんだよな」
「神楽ちゃぁぁぁん!!榊ちゃぁぁぁん!!よかった…二人ともおめでとうなぁ!!!とっても
輝いてるでぇぇぇぇ」
浜辺へと通ずる階段で、先程から全員こっそりと隠れながら様子を窺っている。
何故か満足そうな智と、複雑な表情の暦。ハンカチを握りしめて大阪は涙にくれ、その横でちよは
彼女の背中をよしよしと撫でながら微笑んでいた。
「これで良いに決まってるでしょ?最高の結末じゃない!野暮な事は言いっこなし!よみ、今日は
お祝いに腕によりをかけたごちそうを作るぞ!」
「へーへー。…つーか、大阪。お前さっきまであんなに怒ってたくせに、今度はよくもまぁ、あの
二人のために大泣きできるな。やっぱまだ酔ってんじゃないのか?」
「ちゃうねん。私はなぁ、てっきり榊ちゃんが酔ったはずみでやらかした思っててん。でも、
榊ちゃんが神楽ちゃんを真剣に想ってくれてることが分かったから…それが、それが嬉しくて
涙が止まらへんのっ!うあぁぁぁぁぁん!」
「あー、そうかよ。分かったからお前、いい加減その鍋の被り物を外してくれよな。そのアホ
みたいな格好のせいで、せっかくのシリアスな場面も緊張感に欠けたぞ」
「うぅ…そうやな。……ちーん」
「げっ!おまっ…なに私の服で鼻かんでんだコラー!!」
「ええやん。野暮な事は言いっこなしやろ?」
「言うわ!!」
暦と大阪がもめている隣では、智がちよにとって謎だったあの言葉を解説し始めていた。

 

 

107 名前:最後の勝負に手にするものは[sage]:2006/06/10(土) 14:55:23 ID:F50yEepH

 

「…じゃあ『手込め』って二人でやる鬼ごっこみたいなゲームなんですね」
「あぁ、そうだ。一人が鬼でもう一人が逃げ回る。簡単そうだけど、体力・知力・精神力をかけた
壮絶なゲームなんだぞ!下手すりゃ一生もんよ」
「ふぇ〜!すごいです!私もやってみたいなぁ!『手込め』」
「ちっちっち。これはそう簡単にやっちゃいけないんだぞぉ?やる相手はちゃんと選ばないと
ダメだ。下手にやると犯罪だ。まぁそれが分かるまでちよすけはお預けだな」
「そうなんですか…私いつか分かるかなぁ?」
「なぁに、その内きっとぴったりの相手と出会えるって。いや、もう出会ってるのかもよ」
「……智…お前そんな小さい子にいったい何を教えているんだ?」
暦が思いっきり冷たい視線を智に注ぐ。どうも今日一日で随分と人間不信になったようだ。
「ち、違うぞ!よみ!私は少しでもショックを和らげようと気を遣って…」
「ねぇねぇ智ちゃん」
そんな智のズボンの裾を、ちよはくいくいっと引っ張った。
「な、なんだよ!言っておくが私は名人なんだぞ!名人すぎて、誰にもやれないぐらいなんだぞ!」
「榊さんと神楽さんはどっちが勝ったんですか?」
「へ?」
言われて浜辺で相変わらず熱烈なキスを続ける二人を見つめた。
その熱烈ぶりに、やれやれと肩をすくめ年少者の友人に言い聞かせるように真面目な顔をして
みせた。
「いいかちよちゃん。このゲームはね。最初から仕掛けた方が負けって決まってるんだ」
「えぇー!そうなのー?」
驚いたちよが叫ぶ。
「…変なの…じゃあ、最初からやらない方がいいんじゃないですか…?」
「それが違うの。負けは分かっていても成功報酬がデカイのが特徴でさ。ほら見て、榊ちゃんを…」
浜辺にたたずむ二人を指さし、重々しく言い放った。

「あれが敗者だ。羨ましいだろ?」

(完)

 

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