ピンポンピンポンピンポーン!
昼下がり。
バカみたいにチャイムが繰り返し鳴ったので、黒沢みなもは、はいはい、と口の中で呟きながら、玄関に向かった。
「どなた? 」
「あたしよ、あたしー」
鉄の扉の向こうから聞こえるのは、腐れ縁、谷崎ゆかりの声だ。お互いもういい年齢になるのに、彼女とのつきあいはまるで変わらない。子供っぽいことばかりする、高校からの同級生。
「はいはい」
春休み真っ只中。大方花見の誘いか何かかと思って、みなもは鍵を開ける。ゆかりの訪問の理由は、最終的に二人で酒を飲めさえすればいいのだ。勿論みなもにも異存はない。冷静に今日のタイムスケジュールなどを組み始めていた。
「なあに……?
って、ちょっと何!? あんたその格好?! 」
息を呑む。そして吹き出すみなもに、いつも以上に真剣な顔の谷崎ゆかりは、色とりどりの薔薇の華を差し出して。
「みなもさん、今日は大事な話があって伺いました」
「はあ? 」
真っ白のタキシード。赤い蝶ネクタイ。ぴん、と筋の通った立ち方は、まるで宝塚の男役のよう。そしてそのさわやかな笑い。
「みなもさん」
「はい? 」
「僕と結婚してください」
「え!? 」
唐突な友人の言葉に驚いたみなもだが、今日が何の日だったかを思い出して納得した。
――なるほどね。
「まあ、ここで立ち話もなんだし、上がってよ」
みなもが手で招くと、ゆかりは丁寧に頭を下げて。
「おじゃまいたします」
と答えた。思わず苦笑する黒沢。
――おじゃまいたします、と来たか。
こみ上げる笑いを、咳払いでごまかした、三月三十一日の、次の日。
「今日は、ポニーテールじゃないんだな」
「ポニーにする必要、ないから、今」
「へえ、誰かいい人が出来たのか? 」
「出来ました」
幸せそうな大阪の笑顔に、嘘はない。
「じゃあ、今待たせてるのも、そいつか」
「はい」
女の人しか恋愛感情をもてない、と春日歩は自分に告白したことがある。その時ゆかりは少し彼女につきあってやったことがあるのだ。
それは勿論、知っている人しかしらない物語だ。ゆかりにとっては殆ど記憶の彼方だが、大阪は律儀に覚えていたらしい。
「誰? 」
聞いたのは、戯れだ。もし付き合っているのが女性なら、おめでとうだし、男性ならそれはそれでめでたい。尋ねられた方は、ぼかそうとも何もせず、躊躇なく。
「神楽」
と答えた。
お前な。
はい。
いいと思ってるのか。
はい?
まあいいか……。告白、されたのか?
ううん。あたしから、しました。
それでオーケーしたのか?
色々ありましたけど、はい。
ずるいぞ、お前。
え?
クラスメイトなんかと、ほいほいくっついて。
ずるくない。ずるくないけど、覚悟決めとる。
覚悟?
ずるいのは、谷崎さんのほうやわ。
にこ、と笑う彼女は、ゆかりの心の中を全て見通しているようで、思わず背中に悪寒が走った。そして実際そのとおりだったのだ。
春日歩は、名探偵のようにゆかりに尋ねた。
「ゆかりは、クラスメイトが、好きなんでしょ? 」と。
*
そしてゆかりは酒を飲んでいるのだった。
予想に外れて、外にも出ずに、黒沢の部屋で、酒を飲んでいるのだった。
「さあさあ、もう一杯おつぎしますね」
頬が朱に染まった黒沢が、ゆかりのコップに日本酒を注いで、けたけた笑った。ゆかりが飲み終えると、次々注ぐ。
「私あいにく、お酒が大好きでしょう? やっぱり一緒に飲める人じゃないと、つまらないのよ」
いいながら黒沢もぐいぐい飲む。
黒沢の言う気がかりなこととは、自分の側にいる人がどれだけ晩酌に付き合えるか、何て言う下らないことだった。事の展開に目を丸くするゆかりに、黒沢はどんどん支度を勧めていく。
レタスをひねって作ったサラダと、チリメンジャコ、それからむやみに開けられた缶詰達。即席で酒席が整えられていくのに、ゆかりが前もって用意していた戸籍謄本は出番のないままだ。
「あー! もう、やめたやめたぁ! 」
一言言うなり、ゆかりは赤い蝶ネクタイを毟り取って、床に放った。同時にタキシードも脱ぎ捨てる。息苦しかったし、何より暑かった。
「止めたって、何を? 」
「もう! にゃもには負けた!! あたしの負けでいいわよ! 嘘! 全部嘘!! 」
「何を言ってるの? さっき愛してるって言ってくれたじゃない。嘘じゃないって、言ったでしょ? 」
にやにや笑いながら、黒沢はたれ付き牡蠣缶に箸を突っ込んだ。
「ばーか、本当のわけ、ないだろ? 今日は何日よ? 四月一日でしょ? エイプリールフール! 三月三十一日の、次の日!! 」
言い終わって、ゆかりは惨めな気持ちになる。だからそれを紛らわそうとして、ほら、つげ、と空のコップを突き出して、日本酒のお代わりを頼んだ。
それなのに黒沢みなもは、日本酒なんか注いでくれないのだった。
「何言ってんの、ゆかり。今日は四月一日なんかじゃないわよ」
などと言いはじめるのだった。
「え? 」
「ほら、カレンダー見てみて」
指差した先に、カレンダーがある。月めくりのカレンダーだ。不思議に思ったのは、カレンダーがまだ三月のままだったことだ。
「なんだよ、さっさと剥がせよな」
そう言いながら見ていると、これまたカレンダーに奇妙な違いを発見した。
実は同じカレンダーはゆかりのところにもある。
学校にやってきた、保険のセールスから貰ったものだ。加入したのは、そのセールスマンがこの学校の卒業生だったからではない。万が一自分が亡くなった時、両親に保険金が下りるようにするためだ。
――色々迷惑かけたしね。
こう見えて彼女は案外律儀である。
あら、ゆかりの癖に珍しい、などといいながら、黒沢も同じ保険に加入した。そんなわけで同じカレンダーが飾られている。全く同じ物のはずである。
それなのに感じる、新たな違和感。それは日付の間違いに他ならない。
「……何これ? 」
「四月一日じゃ、ないでしょ? 」
ずっと書き加え続けている、黒沢みなもの冗談。その自分だけが笑うために、その前の日にちょこっと書き加えるだけの、秘密の冗談。
カレンダーの嘘。
「って、何よ! この、三月三十二日って!! 」
「四月一日じゃ、ないでしょ? 」
うっすら笑って、みなもは席を立った。それからそっとゆかりの側まで近づいて。
「三月三十一日の、次の日」
顎を、つかまれた。
ゆかりの顔がゆっくり上げられる。椅子に座ったまま、ゆかりの唇はみなもに奪われた。あむぅ、むーぅ、と深く犯される舌の感触に、ゆかりは大きく息をつく。
「――嘘」
「嘘なわけないじゃない」
みなもの目が、据わっている。お前、酔ってるな、と谷崎が言うと、酔ってるわよ、と言って黒沢は。
「ほら、さっきのショートケーキの、クリームがついてる」
ぺろり、と頬を舐めた。
「嘘」
「嘘じゃないわよ」
「嘘よ」
「嘘じゃない」
そっと忍び寄るみなもの手が、首筋を撫でて、その後に軽いキスが襲ってくるので、酔ったゆかりの身体はすぐに反応してしまう。
「嘘」
「ほんとうよ」
「今日は四月一日」
「それは嘘」
「あたしのこと、愛してなんか、いないくせに」
きれぎれに呟いた言葉に、黒沢は返事もしてくれやしない。キスだけを繰り返す。もうすっかり女の身体になっているゆかりは、ただそれを受け入れる。うそ、うそと言いながら、キスに溺れていく。
そんなゆかりを、今までにないくらい優しい目で見つめて、黒沢が。
「どうして泣いているの? 」
と聞いた。
ふざけんな、ちくしょーめ。
髪をかきあげて、小さく毒づいて、ゆかりは奥歯をくいしばる。そんなことをしても、涙は止まるはずがない。だくだくと流れつづける。
その涙を、黒沢に舌でぬぐわれた。服の釦が外されていく。調子にのんなよ、と言ったのに、鎖骨にあてられた歯に、喘ぐしか出来なかった。
目を開ければ、みなもの顔がある。照れくさいくらいに見慣れた、彼女の顔がある。だから目を閉じる。目を閉じると、暗闇の中で唇が自分の身体に触れるのが分かる。涙が出る。目を開ける。
「ゆかり」
「なによ」
「私にも、たくさんしてね」
「うるせえよ」
「ゆかり」
「なんだよ」
「けっこんしてね」
「ばか」
「ばかって何よ? 」
「おめーなんか、あいしてるわけ、ないだろ」
「それは、嘘」
ねっとりと抱きしめられて、ゆかりは、とうとうみなもの身体に手を回してしまう。そのままずっと抱きしめてしまう。自分からキスしてしまう。
嘘。
嘘。
と言いながら、彼女の身体を求めてしまう。