686 名無しさん@ピンキー New! 2008/09/21(日) 16:06:30 ID:5i1M7bcz
確かに自分の身は安全になるが、神楽は警戒して距離をとるだろう。優位性において、
玉砕覚悟で突っ込むことがためらわれるほどの差が生じるからだ。自然長期戦となり、
そのまま時間切れになってしまうのは目に見えている。自分としては避けたい幕切れだ。
そして、神楽もそうだろう。
雪の布団は足を重くつかんでくるが、力ずくで蹴散らし疾走する。全力で前後させる腕
も含め、全身をフル稼働させて「走る」という一点の動力へ転化。吐き出す白い息は瞬間
後には後方に吹き飛んでいる。長身の蒸気機関車となった榊は、機をうかがっていた。
神楽はいつ行動に出るのか。このまま自分を走らせていては、追い続けていては、勝敗
は流れてしまう。そう、どこかで、それも早いうちに――
感じた。目の端に映る姿よりも先に、鋭い意識の切っ先が抜き身になるのを。
(……来る!)
思った通り。神楽は投げてくる。弾の一つを。
巡らした思考の果ての結論が球を投げさせるのは、決定事項だった。言い換えれば、
結論は一つしかないゆえに、神楽が投球のモーションに入るまでの間が頭の回転率の尺度だ。
意外に早かった。勝負勘の力は、学力には比例しないことが証明されたわけだ。
――しかし!
踏み出した足を大地に突き立てる。蹴散らされる雪の勢いにまさる力強さで振り返りな
がら、しかし投球モーションへの移行は流れるように――榊は優位を確信していた。
既に自分の距離だ。私の位置だ。その遠さから、その軽く不安定な形の弾が当てられる
か! この形と重さの弾に勝てるか!
榊は必殺の一撃を投げつけ――られなかった。
( !ッ)
目の前に弾。ゆっくり、いや速い。なぜ。近づいて、当た。丸。いや避けられ、当たる、否。
全身が投球の動きに入っていたのを、無理矢理に遮二無二ひん曲げる。首の筋力と意識
の力で、頭部を横へ不自然に引っ張る。逸らす、射線上から逸らす!、逸らせるか?、逸らせ!ッ
――冷気が頬をかすめる。風圧だけが触れたのを認識したとき、身体中に膨大なものが
駆け巡った。安堵と緊張が高い融点でないまぜになった熱流だった。
押し流され溶け散ってしまいそうになる冷静さを危うくかき集めたとき、榊は自分の
持ち玉が手にないことに気づく。
と、宙にベクトルを失って浮遊している雪玉を認め、慌ててつかむ。離れた手に再び
持ち玉は戻ってきたが、球の軽さとは裏腹に「−1」の二文字が厳然と重くのしかかった。
「手を離れた時点で、持ち玉の権利を失う」。この条件に当てはまるのだ。
残りの持ち玉は、五分。互いに、三つ。
そして、今現在手にしている持ち玉は、榊の右手に一つ。神楽はゼロ。
そう、神楽が正確にこちらに向けて投げられたのは、それだけの要素があった。神楽は
両手に持った雪つぶてを一つにまとめ、投擲したのだ。丸く重みを持った弾に変じたそれ
は、射程距離を十二分に伸ばした。前を走る相手は絶好の獲物に変わる。
だが、走行しながらの投球は大きな不確定要素を加えることになる。狙いを付け、力を
乗せるのが困難になる。
かといって、じっくり止まって投げるのでは遅い。雪玉をしっかり固めることもできない。
時間ロスを相手は見逃さず、反撃してくるからだ。あらかじめ固めてある持ち玉を手に
している分、有利な条件で以て。
ならば外れる可能性があっても、不安定な状態で投げるしかなかった。運に掛けるしか
なかった。まさに当たるも八卦、当たらぬも八卦。
けれど、正確に榊の顔に向けて投げたのは神楽の能力があってこそで、それをかわすこ
とができたのは榊の能力があってこそだ。運だけではない。
互いにそのことをわかっていた。少なくとも榊はそう感じた。両者に引け目はない。現
況を素直に受け入れている。
だから。
(この一球を!)
崩れていたが投球フォームは継続している。再度振りかぶることはせず、そのまま神楽
へぶつける! 全くの無防備、かつ徒手空拳。しかし、一切躊躇はしない!
必殺の一撃を放つべく、意識の焦点を持ち玉・体勢から神楽へと完全に向けたとき、榊
は目を見張る。
神楽が目の前に迫っている。背を真っ直ぐ伸ばして、疾走してくる。近い。一度でも停
止していたら、この接近はありえない。そして、恐らく先ほどの投擲もほぼ走りながら投
げ、当たるのを確認するための停止もなく走り続けた。
無手のままだが、何か手はあると?
思考のしこりを除け、投げようとした時、
(なるほど)
榊は気づく。なるほど、確かに。
――当てづらい。
離れていれば落ち着いて投げることができる。反撃の危険性はない。もし、背中を
見せたならばなおさらだ。そういう距離だった。
なら逆に近づいたなら?
より当てやすくなる? NOだ。反撃される可能性が上がる。外したらピンチになると
いう気持ちが焦りを生む。実際反撃は可能だ。神楽の手が届きさえすれば。
(させはしない!)
その前に投げきる。投げきってやる! 彼女の手が遮る前に、この腕を振り下ろす!
果たしてそれは叶った。顔面に雪の散弾を受けながら。
神楽は身を低く屈め榊の足下に滑り込み、その勢いで厚く積もった雪を蹴り飛ばしたの
だった。
榊は自分の持ち玉がふいになったのを感じていた。そして、心の中を第一に占めたのは、
感心だった。
こちらは挙げた手を振り下ろすだけで速度の減衰は否めない。神楽はそこにつけ込もう
と榊の腕を止めるべく距離を詰めたが、それが不可能とみるや球をかわす作戦に切り替え
たのだ。そして実際やってのけた。
作戦変更の瞬時さも見事なら、ジャンプでよけた記憶をフェイントに下へ身を逃すこと
も流石だ。距離を詰める走行が前傾姿勢でなかったことも、そのフェイントに関わってい
るのだろう。
攻撃をかいくぐった勢いを利用し、飛ばした雪で視界を妨げることもしている。さらに
……同時に反撃も!
榊は腰を落としながら、左腕を下へ回す。神楽の腕がせき止められた。
手首の下辺りに手刀を鋭く入れられ、神楽の手から雪のつぶてがポロリと落ちた。
神楽はしゃがんだ瞬間に、手で雪をすくっていたのだ。いや、実際はいつすくったのか
はわからなかった。右手に投げる気配が生じたのを、榊はとっさに判断し、止めたのだった。
神楽の左手には球はない。そして榊の手にも。戦況は膠着状態になった。自分と相手と
が白く吐き出す呼気が、各々のペースで調律する楽士のようで、何だか奇妙だった。
と、あることに榊は気づく。
(……そう)
ゆっくり右手を下げる。視線は神楽に合わせたまま。
(……まだ)
自分の意識すら関知しないように、手を、
(……あった)
自然に、そこに、運び、
(反撃の一手が!)
上着のポケットからわずかに手袋がはみ出している。その黒いウールにひっついた雪の
一粒をつまみ、神楽へ!
『自分の手で塊にした雪はどんなものでも持ち玉になる』
条件を満たす。たとえ数ミリでも必殺の威力!
流星のように一筋の軌跡を描き、勝利の輝きへ達する攻撃は、しかし、未遂に終わった。
突き出された神楽の掌底が、榊の手首の下を叩いたからだ。痺れが右腕全体に走る。
ポロリ、と今度は榊の手から持ち玉が落ちた。
「惜しいな」
神楽は屈託のない笑みを、白い歯と共に見せた。浅黒い肌とは対照的な真っ白な歯だった。
その時まで、榊は「惜しい」の意味を、自分の一撃が失敗したことについてかと思い違えていた。
榊と神楽は、互いの右手を、互いの左手が抑え合い、向かい合っている状態だ。二人の
身体にはわずかな間ができている。
その間を。何かが上から走り抜けた。
「!」
反射的に下を見ると、雪の地面を小さくへこませているものがある。いびつな形。……
片手で作られた雪片だ。神楽の、持ち玉。
いつ投げた? 投げられるとしたら……榊の攻撃をかがんでかわしたあの時しかない。
右手だけでなく、両手で雪をつかんだ、のか。
(そして、右手が全力の攻撃だと思わせておいて、後ろ手に左手の持ち玉を上に放り投げ
たわけか)
うまくいけば当たっていた。が、投げた感触から後一歩のところで、前へのベクトルが
足りなかったことを感じたのだろう。
(それで「惜しい」、か)
思えば、まったく嫌みのかけらもない笑みだった。人の失敗に喜ぶような笑みでは決してなかった。
「おっ」
その神楽が、ちょっと驚いた表情になっていた。
「へへっ」
そして笑う。ようやく榊は自分が笑みを浮かべていることに気がついた。
「じゃあ、ラスト一個、やろうぜ」
神楽が手を下ろして言う。
「お互い背中を向けて五歩でいいかな」
言葉はそれだけだったが、榊は理解の意を示す。つまりはやっぱり西部劇だ。
後ろを向く。神楽も後ろを向いた。
前方には誰もいない。木々も沈黙している。ただ静かに落ちる雪が、時間の停止を否定
していた。そして背中に感じる彼女の体温も。離れていても伝わる熱さ。自分もまた同じ
熱を持っている。この熱の交流が、今のこの時を形作っている。
一歩を踏み出す。雪の立てる音が、同時に後ろで起こる。また一歩。自分の足下と対照
に、後ろで起こる音は一歩ごと離れていく。しかし、その音はどこまでも間近に感じられた。
そして――最後の一歩を踏むための足が上がる。
これまでのごくわずかの時間は濃密な、本当に濃密なものだった。
――ゆっくりと足は下ろされる。
何のための決闘だったのか? 頭の中にそれは無くなっていた。
――雪の表面が靴の裏に触れ、
いや、今は、この一瞬に全てを委ねよう。
――ラストダンスを踏みしめる。
冬の旋風となって振り向き、腕を相手に向かって振り下ろす!
神楽が自分と同時に投げるのを感じた。互いに同時、つまりよけることはできない。相
手の狙いが正確なら、当たるのを受け入れるしかない。いや、勝負の結果がどうなろうと、
受け入れられる心が既にあった。そう、どうなっても。